神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

赤木桁平と薄井秀一


赤木桁平こと、池崎忠孝。今では、「「遊蕩文学」の撲滅」の著者としてのみ名前が残っているらしい。
薄井秀一。明治末期の千里眼の時代に、東京朝日新聞の記者として『神通力の研究』を執筆。
この両者は親しい仲であった。


赤木の追悼録*1所収の朝倉文夫「池崎忠孝君」では、

池崎を始めて知ったのは、彼が岡山第六高等学校から、東京帝国大学独法科に入学(大正二年・一九一三年)間もなく、東京朝日新聞の記者薄井秀一という老生の知人に同伴されて来ました。


とある。また、松岡譲「「明暗」の原稿その他」では、

後で分ったのであるが、彼は学生に似ずつきあいが広く、そのころ、朝日新聞の政治部かにいた年上の薄井秀一氏とよく、同氏が手をまわして、たしか『彼岸過迄』(?)の原稿を所持しているのを見せつけられ、大体の内部事情を察知したものだから、折を見て当って砕けろで一丁打って見たもの。


と、赤木が薄井を見習って、漱石から『明暗』の原稿を譲り受けたエピソードについて書いている。


この薄井だが、同書の永井保「池崎忠孝小伝」によると、いろいろな意味で赤木の運命に影響を及ぼした重要な人物であり、松岡譲の記述から赤木より幾分年長であるということくらいしか、わかっていないという。また、「伝え聞くところによると、薄井氏も先年物故されたそうである」とも書いている。


はたして、薄井はいつ、どこで亡くなったのであろうか。そして、晩年は何をしていたのであろうか。


追記:朝日新聞さんによると、職員が勝手に、省庁のコンピューターで「ウィキペディア」日本語版を、役所に都合のいいように修正していたという。ズショカンの人もやっていないかしら。

*1:『池崎忠孝』昭和37年10月