神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

久米正雄が昭和2年に失ったもう一人の友人北澤秀一(その1)

久米正雄は昭和2年7月第一高等学校以来の親友芥川龍之介を失った。従来知られていないことだが、久米は翌月にも友人を失っている。日本で「モダーン・ガール」という言葉を最初に使った北澤秀一である。北澤の死については、故菅聡子先生が『セクシュアリティ』(ゆまに書房)所収の北澤秀一『近代女性の表現』 (改造社大正12年4月)の解題で、

『東京朝日新聞』に掲載された死亡記事「北澤秀一氏逝く」(『東京朝日新聞』一九二七(昭和2)年八月二六日)によれば、「かつて東朝社会部に在り、洋行とゝもに新聞記者を辞し帰朝後はあるひは日活の宣伝部長として映画輸入業として真面目な批評家として専ら映画のために努力した人であ」り、八月二十五日、「軽井沢ホテル」にて死去したという。ほかの各種人名辞典には記載がなく、これ以上のことは不明である。

と紹介している。実は東京朝日新聞には、菅先生が紹介した訃報のほかに、同月28日に死亡広告が載っていた。それによると、
・北澤は軽井沢に旅行中狭心症を発症し、25日午前10時30分に急死
・葬儀は郷里長野市で29日実施
広告は、長野市の父北澤太兵衛とともに、友人総代根岸耕一・久米正雄の連名である。久米が作家の久米であることは後に明らかにする。根岸は日活の取締役で、『映画界の横顔』(超人社、昭和5年9月)所収の「モダンガール型」で「北澤君なら(僕も時々引きづられて、ほんとに引きづられて)生前よくモガ型を引率してそこいらの銀座の夜のカフエーを飲み廻つたものだ」と回想している。

北澤が『神通力の研究』(東亜堂書房、明治44年3月)の著者薄井秀一と同一人物であることは、このブログで何回か紹介してきたが、横田順彌さんの『明治時代は謎だらけ』によると、薄井の郷里は長野市*1だから、この広告で北澤の郷里も長野と確認でき、益々私の説の正しい可能性が強まってきた。そこで、薄井秀一=北澤秀一の生涯について、久米との関係も盛り込みながら論述することとする。
なお、本稿は、面識はなかったが、菅先生に捧げる。

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昨日の毎日新聞に酒井佐忠氏による『折口信夫研究』創刊の記事。

その情熱に満ちた研究者の一人、安藤礼二氏は、海の彼方の起源の場所に立ちながら、はるかな古代と、音楽と舞踏による「祝祭」が行われる現代に通じる道を示した折口の「故郷」について述べる。

とある。また、啄木の『一握の砂』に、歌の評価や印象を折口自身が書き込みを入れたものを資料として収録しているという。

*1:典拠は、『日月』大正2年3月号の蛯原紅郎「東朝印象記(二)」。