神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

坪内逍遥は「沙翁」を「シヤヲウ」と読んでいたーー早稲田大学坪内博士記念演劇博物館職員の平塚義角から岡山の教員花田一重宛葉書からーー


 星槎グループ監修、飯倉洋一・日置貴之・真山蘭里編『真山青果とは何者か?』(文学通信、令和元年7月)260頁に参考文献として、大山功『真山青果:人と作品』(木耳社、昭和53年12月)が出ている。この演劇評論家大山の経歴は、『20世紀日本人名事典』(日外アソシエーツ、平成16年7月)から要約すると、

大山功 おおやま・いさお
明治37年8月 岡山市
昭和7年 早稲田大学文学部英文科卒
 早稲田大学卒業後、『芸術殿』『東宝』『日本演劇』『演劇界』などの編集に携わる傍ら、演劇評論を執筆。
 戦時中 情報局演劇委員等を務める。
昭和20年 応召するが病のため除隊。妻の郷里の山形に疎開
戦後 山形で学校演劇、アマチュア演劇の指導をし、地方文化の向上に努めた。
平成5年7年 没

 これに『現代出版文化人総覧 昭和18年版』の「現代執筆家一覧」から補足すると、早稲田大学卒業後、警視庁刑事部鑑識課を経て、早稲田大学演劇博物館に勤務し、『芸術殿』を編集。その後、東宝書籍出版部兼編集部員となり、演劇雑誌『東宝』を編集している。
 先日入手した花田一重宛に出された早稲田大学坪内博士記念演劇博物館内の平塚義角の葉書に、その大山に関する記述があった。大山功が東宝文芸部へ移ったので、代理として平塚が回答するというものである。消印は、昭和11年6月29日である。回答は、坪内先生は「シヤヲウ」と発音していたし、一般にもそう発音されていると思うという内容である。花田は、演劇博物館の大山宛に「沙翁」(シェイクスピアのこと)の読み方について問い合わせていたようだ。高等女学校の教員である花田なので、坪内逍遙の『沙翁全集』(早稲田大学出版部)辺りの読み方を知りたかったのだろう。花田は岡山県の出身で、大山とは同郷でもある。私的にも知り合いだったかどうか。
 平塚は、明治37年現在の埼玉県所沢市生まれで、昭和3年早稲田大学文学部文学科独逸文学専攻卒業である。平塚『ふるさと久米:今と昔』(所沢郷土美術館、昭和60年1月)の河内昭次「地方文化の発展を目指す平塚義角氏」によると、平塚は戦後所沢市の市議会議員、教育委員会委員長となり、自宅を所沢郷土美術館として開館している*1。これは、現在もあるようだ。「所沢市ホームページ 所沢郷土美術館主屋・長屋門・土蔵」参照。
 また、河内は平塚について「『今では、直接に坪内博士の指導を受けた、数少ない門下生の一人だ』と自慢している」とも書いている。なるほど、逍遥が「沙翁」を「シヤヲウ」と発音していたと明言できた訳である。
 ちなみに、逍遥協会編『坪内逍遥事典』(平凡社、昭和61年5月)に「沙翁」が立項されている。しかし、読みは「さおう」で、「『しゃおう』とも読む」とあって、今では「さおう」と読むのが一般的のようだ。
参考:「昭和10年3月坪内逍遥の葬儀に伴う妻坪内センから岡山の教育者花田一重宛礼状 - 神保町系オタオタ日記
 

*1:そのほか、平塚は「東京精神分析学研究所創立期のメンバー - 神保町系オタオタ日記」で言及した大槻憲二(大正7年早稲田大学英文学科第1部卒)の東京精神分析学研究所の一員で、ヨラン・ノイフェル著・平塚訳『ドストイェフスキーの精神分析』(東京精神分析学研究所出版部、昭和11年5月)を刊行している。

昭和32年11月2日奈良女子大学の文化祭で講演「西洋文学と日本」をした桑原武夫


 平安蚤の市で入手した奈良女子大学の学生達による北海道旅行の計画書についての記事「昭和32年奈良女子大学家政学部被服科の女学生が旅した北海道ーー山本志乃『団体旅行の文化史』(創元社)を使うーー - 神保町系オタオタ日記」は、多少評判が良かったようだ。今回紹介する昭和32年11月2日~4日に奈良女子大学で開催された文化祭のパンフレットも、同じナンブ寛永氏の200円均一箱から購入。旧蔵者は、北海道旅行の計画書と同一人物だろう。第一日目の講演者に桑原武夫が出ていたので、買ってみた。講演の議題は、「西洋文学と日本」である。

 昭和33年のパンフレットも出ていて、そちらは林屋辰三郎の講演だったが、買わなかった。当時の学長は落合太郎で、桑原の京都帝国大学文学部文学科フランス文学専攻時代の恩師なので、講演はその関係で引き受けたのだろう。桑原の詳細年譜を作っている人がいたら、記入していただきたい。また、パンフレットを見ていて面白そうと思ったのは、文芸部の展示会「大学同人雑誌展望」である。全国の大学の同人雑誌を集めたようだ。

 こういうパンフレットは残らないもので、少なくとも奈良女子大学図書館にはない。『奈良女子大学六十年史』(奈良女子大学、昭和45年3月)249頁には次のような記載があるが、文化祭がいつから始まったのか分からなかった。

 各サークルの日常活動の諸成果が総合的に表現されるのは毎年晩秋十一月上旬に行なわれる学園祭(文化祭・大学祭、昭和四十一年度以降学園祭)においてであろう。学生自治会ないし学園祭実行委員会が中心になって自主的に企画し実施し、多くの年度は運動会をも含んで、教職員や市民とも交流する恒例の行事である。(略)

 京大の場合も、11月祭のパンフレットは大学図書館や大学文書館にも無いと思っていた。しかし、以前の検索の仕方が悪かったのか、大学文書館に所蔵されていることが判明した。古本市でも見たことがない貴重品なので、懐かしい70年代から80年代の物を閲覧してみたいものである。毎年A号館で実施したUFO超心理研究会の展示も載っているはずである。また、私家版ではあるが松田陽一『京都大学における「学生の祭」の歴史に関する調査報告書:陸上運動大会・園遊会・文化祭・11月祭を中心にして』(平成24年1月)という本もあるようだ。凄いですね、11月祭について調べた人がいるんだ。

山口瑞穂『近現代日本とエホバの証人』(法藏館)でも活用された小林昌樹編『雑誌新聞発行部数事典』(金沢文圃閣)


 山口瑞穂先生の『近現代日本エホバの証人:その歴史的展開』(法藏館、令和4年2月)103頁の註に小林昌樹編・解説『雑誌新聞発行部数事典ーー昭和戦前期 附.発禁本部数総覧』(金沢文圃閣平成23年12月。以下『事典』という。)*1が出てきた。

(27) 発禁処分となった雑誌の内訳は、それぞれ一九三七年二月三日に『黄金時代』一〇九号(二月一日発行)が三万九〇〇〇部、同年二月二三日に同誌一一〇号(三月一日発行)が三万部である[小林編 二〇一一:三七頁]。(略) 

 『黄金時代』は、明石順三が主宰した灯台社の機関誌である。『事典』は、吉永さんに引っ張り出された平成31:年1月の古本バトルで紹介したところである。古本ではない『事典』をいきなり出す訳にはいかないので、家蔵の『出版警察報』を前置きにしたと思う。『事典』が『出版警察報』に掲載された「差押成績表」から発行部数を抽出したものだからだ。3回ぐらい参加した古本バトルでは随分トンチンカンな発言をしたと思うが、多少は役に立ったようである。古本バトルを聴いた宗教関係の研究者に『事典』を活用していただくようになった。山口先生もその一人である。
 本書の「あとがき」には、吉永さんへの次のような謝辞がある。

 本書における灯台社の時代に関する資料の一部は、吉永進一先生ご所有のものをご厚意で貸与していただいたものである。宗教雑誌全般に関する先生の造詣の深さ、そして古書資料の読み方や味わい方という点でも多くのことを学ばせていただいている。(略)  

 吉永さんが研究者として傑出していたのは、人から見ればクズのような雑本を学生時代から熱心に蒐集していたことである。これが、ときに「宗教雑学王」(by碧海寿広先生)とも称される博識に繋がった。
 

*1:令和2年10月に増補改訂普及版が刊行されている。

大正末期に松本幸四郞や宝塚少女歌劇の公演を主催した都ホテル内のアートクラブとからふね屋印刷所

 
 三密堂書店をのぞいてきた。店内で特価200円の『アートクラブ第十二回例会松本幸四郎公演会』の冊子を発見。都ホテル内のアートクラブが大正15年11月29日岡崎の京都市公会堂で主催した松本幸四郎公演会の演目と脚本の一部(?)を掲載した31頁の小冊子である。

 そもそも歌舞伎を見たことがないので普通なら買わないのだが、「からふねや[ママ]印刷所」とあるのを見つけて、あわてて購入。からふね屋印刷所を創業(大正10年の創業時は、「唐舟屋印刷所」)した堀尾幸太郎と妹の堀尾緋紗子は、夢野久作と繋がる兄妹だった。詳しくは、拙ブログ「『書物礼讃』を印刷した唐舟屋印刷所の堀尾幸太郎・緋紗子兄妹ーー高橋輝次『古本こぼれ話〈巻外追記集〉』への更なる追記ーー - 神保町系オタオタ日記」を参照されたい。また、幸太郎は臼井喜之介の第2詩集『望南記』(昭森社昭和19年6月)の印刷者でもある。なお、「からふねや印刷所」の表記は、冊子と挟み込みのチラシの両方にあるので、誤植ではなく、「からふね屋印刷所」の前に極短期間「からふねや印刷所」と称した時期があったのかもしれない。いずれにしても、本冊子は唐舟屋印刷所から改称した最初期の印刷物ということになる。
 都ホテル内のアートクラブについては、不詳である。『京都府百年の年表』(京都府、昭和46年3月)によると、大正14年10月20日の『京都日出新聞』に「アートクラブ芸術鑑賞の会(都ホテル内)発足(毎月1回例会)」との記事が載っているようだ。都ホテル大正13年4月に新本館をオープンしているので、主要客である外国人客向けの余興を主催する会を新たに創設したのかもしれない。
 『近代歌舞伎年表京都篇第8巻』(八木書店、平成14年3月)によると、大正14年12月13日アートクラブ第3回余興として尾上泰次郎・松本金太郎の『越後獅子』、尾上栄三郎の『老松』などが上演された。また、15年1月24日にはアート倶楽部[ママ]第4回余興として都ホテルで宝塚少女歌劇(花組)の公演、昭和2年3月4日には市公会堂でシドニー・トムソン嬢の独唱・劇・舞踊が実施されているので、歌舞伎以外にも多様な「アート」を主催していたことがわかる*1。この都ホテル内のアートクラブについての研究は、存在するのだろうか。

*1:その他、本冊子に明春1月22日の舞踊に花柳壽輔が、哥澤に芝金が出演する旨の予告チラシが挟まっていた。

昭和32年奈良女子大学家政学部被服科の女学生が旅した北海道ーー山本志乃『団体旅行の文化史』(創元社)を使うーー


 山本志乃『団体旅行の文化史:旅の大衆化とその系譜』(創元社、令和3年9月)135頁は、明治期に男子から女子へと広がった修学旅行の例として奈良県女子師範学校を挙げている。奈良県師範学校に女子部が開設された明治35年の翌年大阪の内国勧業博覧会に出かけたのを始め、38年に奈良県女子師範学校として独立して以降は、回数が著しく増加したという。当初は日帰り旅行だったが、宿泊を伴う修学旅行として、明治40年初めて3泊4日で伊勢、大津、京都などを廻った。
 では、戦前の個人としての女学生は、どのような旅行をしていたのだろうか。これは、中々わからない。先日平安蚤の市でナンブ寛永氏から200円で買った旅行計画の冊子は、残念ながら昭和32年のものであった。奈良県女子師範学校の後身である奈良女子大学家政学部被服科の学生6名による夏の北海道旅行の計画書である。戦後にはあまり興味がないが、女性らしく詳細な日程表や予算、更にはアイヌ童謡や毬藻の唄まで載っているので買ってみた。日程は、昭和32年7月22日(月)23時に大阪駅発、札幌、旭川、網走、摩周湖、阿寒湖、釧路、支笏湖、苫小牧、白老、登別、洞爺湖長万部などを廻って、8月2日朝東京の上野で解散。11泊12日、予算1万5千円の旅である。
 女性だけのグループによる相当長期間の旅行だ。おそらく戦前には女子学生だけの宿泊を伴う旅行、ましてや北海道の長期旅行はまず例がなかっただろう。奈良女の学生達の宿泊は車中泊・船中泊のほか、旅館やホテルだが、学芸大学の女子寮も使っている。山本著166・167頁によると、戦後昭和20年9月日本交通公社が旅行業務を復活。続いて、23年の日本ツーリスト、翌年の日本旅行会、全日本観光などの発足が挙がっている。昭和30年には、日本ツーリストが近畿日本航空観光と合併して、近畿日本ツーリストが誕生している。奈良の女学生達は、切符や宿の手配に旅行業者を利用しただろうか。
 日程表は分刻みのスケジュールで、列車の遅延や同行者の体調とかにより計画どおり廻れたかどうか気になる。当時の日記が残っていれば、確認できるのだが。
参考:「明治40年における京都第五高等小学校の伊勢修学旅行ーー山本志乃『団体旅行の文化史』(創元社)を読んでーー - 神保町系オタオタ日記

文庫櫂にあった柳田國男『遠野物語』初版の限定番号は何番だったのか?


 逃した獲物は大きかった。文庫櫂のガラスケース内にあった柳田國男遠野物語』の初版は、店で売れなかったのでヤフオクに出されて売れたという。店にあることは以前から聴いていたが、手が出ない値段だろうし、今更『遠野物語』の初版を見ても新知見を得られないだろうとスルーしてしまった。
 しかし、考えてみれば同書は350部の限定版で限定番号が記載される上、旧蔵者が分かる印・書き込みがあったかもしれない。しかも、店売りでは6万円位のつもりだったという。貧乏なわしでも、6万円だったら清水の舞台から飛び降りるつもりで、買っちゃえる値段ではある。逃した獲物は、大き過ぎ。
 売れたという話を知ったのは、実は2年前である。今頃話題にするのは、原本遠野物語編集委員会編『柳田國男自筆原本遠野物語』(岩波書店、令和4年1月)が刊行されて、佐々木喜善宛限定番号1番の写真を見て、思い出したのであった。
 この限定番号については、石井正己『遠野物語の誕生』(ちくま学芸文庫、平成17年8月)263~267頁に確認できた分が記載されている。要約すると、

1号 佐々木喜善
2号 柳田國男
6号 松岡鼎
22号 早稲田大学図書館
39号 井上通泰
40号 桑木厳翼
50号 戸水寛人か
52号 帝国図書館
70号 南葵文庫
103号 京都高等工芸学校
239号 胡桃沢勘内
258号か 芥川竜之介
282号 南方熊楠
291号 周作人

 更に、菊地暁先生が関西の図書館所蔵分を「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)」で報告されている。要約すると、

101号 京都府立図書館
107号 京都大学経済学部図書館(河上肇旧蔵)
109号 大阪大学附属図書館(本庄栄治郎旧蔵)
170号 天理大学附属天理図書館
267号 佛教大学図書館(西田直二郎旧蔵)
306号 大阪府中之島図書館
338号 京都大学人文科学研究所図書館(内藤湖南旧蔵)

 自分で買えないまでも、菊地先生に文庫櫂に『遠野物語』があると教えてあげればよかったですね。そこまで気が回らなかった(´・_・`)

第4代東洋大学学長境野黄洋旧蔵の村上専精『仏教統一論』(金港堂、明治34年)を発見!ーーオリオン・クラウタウ編『村上専精と日本近代仏教』(法藏館)に寄せてーー


 オリオン・クラウタウ編『村上専精と日本近代仏教』(法藏館、令和3年2月)では、複数の論者が村上『仏教統一論第一編大綱論』(金港堂、明治34年7月。以下単に『仏教統一論』という。)及び境野黄洋「仏教統一論を読みて」(以下「批評」という。)収録の『仏教統一論第一編大綱論批評集』(金港堂、明治34年12月)に言及している。先日の平安神宮古本まつりで不死鳥BOOKSの200円均一箱から、その境野旧蔵の『仏教統一論』を発見して驚いた。しかも、多くの書き込みがあった。
 この書き込みも、境野による可能性がある。境野の「批評」では、村上による大乗の三法印と小乗の三法印の混雑を批判して、次のように述べられている。

(略)大乗の三法印と小乗の三法印とを混雑して述べたるがため、小乗の三法印の所にて直に無我即大我、涅槃寂静は直ちに実在を暗示するものの如く説きたる所もありて、 二五四頁等 其の混雑一方ならず。(略)

 『仏教統一論』254頁の書き込みには、次のようにある。

 また、289頁にも混雑を指摘する書き込みがある。

 一方、「批評」には『仏教統一論』を高く評価する記述もある。

(略)余は博士の四諦十二因縁と三法印とを以て仏教の歴史的発達を叙したるは確に一新見なりと信じ、其の他大乗論も博士苦心の跡見るべきものあり、且つ釈迦は人なりと□言し、報身仏の理想なりと論じたるが如き甚だ痛快の感あり、なほ三身の発達論 四五二頁 も、実に興味ある叙述にして、甚だ有益なるものなりし(略)

 『仏教統一論』452頁の書き込みには、「此の二方面ハ確に一新見なり」とある。

 143頁には、四諦十二因縁と三法印に注目した書き込みがある。

 このように境野による書き込みではないかと思われるが、境野の筆跡を確認できる研究者はいるだろうか。