山本志乃『団体旅行の文化史:旅の大衆化とその系譜』(創元社、令和3年9月)135頁は、明治期に男子から女子へと広がった修学旅行の例として奈良県女子師範学校を挙げている。奈良県師範学校に女子部が開設された明治35年の翌年大阪の内国勧業博覧会に出かけたのを始め、38年に奈良県女子師範学校として独立して以降は、回数が著しく増加したという。当初は日帰り旅行だったが、宿泊を伴う修学旅行として、明治40年初めて3泊4日で伊勢、大津、京都などを廻った。
では、戦前の個人としての女学生は、どのような旅行をしていたのだろうか。これは、中々わからない。先日平安蚤の市でナンブ寛永氏から200円で買った旅行計画の冊子は、残念ながら昭和32年のものであった。奈良県女子師範学校の後身である奈良女子大学の家政学部被服科の学生6名による夏の北海道旅行の計画書である。戦後にはあまり興味がないが、女性らしく詳細な日程表や予算、更にはアイヌ童謡や毬藻の唄まで載っているので買ってみた。日程は、昭和32年7月22日(月)23時に大阪駅発、札幌、旭川、網走、摩周湖、阿寒湖、釧路、支笏湖、苫小牧、白老、登別、洞爺湖、長万部などを廻って、8月2日朝東京の上野で解散。11泊12日、予算1万5千円の旅である。
女性だけのグループによる相当長期間の旅行だ。おそらく戦前には女子学生だけの宿泊を伴う旅行、ましてや北海道の長期旅行はまず例がなかっただろう。奈良女の学生達の宿泊は車中泊・船中泊のほか、旅館やホテルだが、学芸大学の女子寮も使っている。山本著166・167頁によると、戦後昭和20年9月日本交通公社が旅行業務を復活。続いて、23年の日本ツーリスト、翌年の日本旅行会、全日本観光などの発足が挙がっている。昭和30年には、日本ツーリストが近畿日本航空観光と合併して、近畿日本ツーリストが誕生している。奈良の女学生達は、切符や宿の手配に旅行業者を利用しただろうか。
日程表は分刻みのスケジュールで、列車の遅延や同行者の体調とかにより計画どおり廻れたかどうか気になる。当時の日記が残っていれば、確認できるのだが。
参考:「明治40年における京都第五高等小学校の伊勢修学旅行ーー山本志乃『団体旅行の文化史』(創元社)を読んでーー - 神保町系オタオタ日記」