神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

明治40年における京都第五高等小学校の伊勢修学旅行ーー山本志乃『団体旅行の文化史』(創元社)を読んでーー

f:id:jyunku:20211203064723j:plain
 山本志乃『団体旅行の文化史:旅の大衆化とその系譜』(創元社、令和3年9月)は、「はじめに」によると、次の三つの切り口からアプローチを試みたものである。
・「I お参りの旅」は、伊勢参宮や富士登拝など、古来連綿と続けられてきた神仏にいざなわれる旅の系譜
・「Ⅱ 学びの旅」は、人間の成長段階に応じて課されてきた通過儀礼としての旅から、国民的行事とよべるほど定着した修学旅行へと至る系譜
・「Ⅲ 親睦の旅」は、地方を基盤に展開した、身近な仲間との旅を、とくに仲介者である旅行業の視点から追う
 「Ⅱ 学びの旅」には、内国勧業博覧会を見学する修学旅行や伊勢への修学旅行が出てくる。そう言えば、「明治40年8月夷谷座で活動写真「祇園祭」を観る少年の日記 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した少年の日記に、明治40年5月京都の第五高等小学校の生徒が伊勢へ修学旅行に行く様子が記載されていた。冒頭に写真であげたものである。3時半起きで、4時10分に学校を出発して七条駅へ、伏見から木幡へ行く途中でようやく日の出である。津で見学や食事をした「共進会」は、グーグルブックスによると、『三重県教育史』第1巻(三重県教育委員会、昭和55年)に明治40年三重県で全国教育品共進会開催とあるので、それだろうか。泊まった「市はん学校」(師範学校だろう)は、よほどぎゅうぎゅう詰めだったようで絵に描かれている。
f:id:jyunku:20211204061641j:plain
 修学旅行といえば旅館に泊まるものと思ってしまうが、そうでもなかったようだ。翌日は伊勢神宮に参宮したと思われる。しかし、記載はなく、6月29日へ飛び、「今日学校退校セリ」とある。家庭の事情で、退学したのだろう。
 少年は、明治28年生まれで成徳尋常小学校、立誠尋常小学校を経て、第五高等小学校に入学し、3年目で退学している。その後の「奉公記」には、明治43年6月に初奉公し、その夜ハレー彗星が現れたと書いている。よほど印象的だったのだろう。
 「学校友人乃名」として、31人の名前が書かれていた。このうち田辺主計は、琵琶湖疎水の工事を担当し、明治40年当時は京都帝国大学理工科大学教授だった田辺朔郎の次男である。主計は後に田辺太一の養子となり、同志社大学へ進学することとなる。第五高等小学校を中退した日記の少年と友情は続いただろうか。
f:id:jyunku:20211204061711j:plain