神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

蒐集家西村貫一がへちま倶楽部に取り込もうとした岩本素白と伊藤正雄

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 足立巻一の小説『やちまた』上巻(河出書房新社、昭和49年10月)に「拝藤教授」の書斎が描写されている。

(略)八畳ほどの部屋には各種辞典類から近世文学の書物が書架によって天井までなべられ、『国語と国文学』『国語国文』といった専門雑誌の旧号が特別注文らしい書棚に年代別に整然と立てられ、五十音順に分類された独特のカード・ケースが座右にあった。カードには雑誌の目録まで区分して記入されているらしく、いつ何をたずねにいってもすぐ所要の文献を出してくれる。(略)

 このモデルは、当時神宮皇學館教授だった伊藤正雄である。伊藤は、戦後神戸市生田区高儀神社境内に住み、甲南高等学校教授兼天理大学教授となる。その時期、へちま倶楽部の西村貫一が伊藤や岩本素白接触を図っていた。それは、伊藤の『近世日本文学管見』(伊藤正雄先生論文出版会、昭和38年11月)の「編外 岩本素白先生の書簡」所収の伊藤宛岩本書簡でわかる。

・昭和25年1月20日付け
 (略)神戸と云ふ処、全く不案内にて、三十余年前、阿波の徳島へ参りし帰り、一寸立寄りしきりの処なるが、近頃妙な因縁にて、御地の西村と申す旅館の主人、ちと変つた人にて、頻りに小生に呼出しをかけ、先便などには、これでもこちら向かぬか等といふ言ひ草、然し性来の億劫がり、不精ものにて、どうも何処へも出る気にならず、手紙であやまつて斗り居りますが、同じ神戸に二人まで知人の住まはれるといふ事、面白い事と存じて居ります。(略)
・昭和25年9月11日付け
(略)西村君には已に御会ひの由、小生は氏の悪童? 時代に一寸見てゐるきり。先日送つてよこした英字新聞にて近影を見て、なる程小生とは余り年が違はなかつたのだと苦笑致しました。(略)同君も二十余年上京しない等は、面白い事です。自分でも云つてゐますが、荒つぽい太い神経の持主で、その底に又妙に細い感覚がある人ではないかと思つてゐます。何しろ名物男らしく、始終よこす手紙などもなか/\振つて居ります。書物や学問を尊重する所もあるらしく、すこし方角が違つてゐますが、古書捜査などの面で御役に立つ事が若しあればよいがと存じて居ります。(略)
・昭和25年9月26日付け
 (略)西村君、どうやら京阪神の然るべき人々を集めて、何かと(世話焼きと云ふか何と申すか)会などやつてゐるらしく、金曜会といふものを組織、へちま倶楽部とか云ふものを作り、会合などもやる様子。貴下が嘗て麻布に関係あり、かういふ方だと大略を申した所、大いに心を動かしたらしく思はれるのです。(略)西村君、小生の幽かに覚えてゐる昔はわん白者でありましたが、今は風変りな「荒つぽい親切をもつた人」では無いかと思ひます。(略)

 伊藤は大正4年から7年まで麻布中学校に通い、国語を岩本に学んだ。岩本は、来嶋靖生編『東海道品川宿岩本素白随筆集』(ウェッジ、平成19年12月)の略年譜によると、明治16年8月生、33年3月麻布中学校卒、37年3月早稲田大学を卒業し、同年4月から大正11年3月まで麻布中学の教諭となっている。岩本と西村は、9歳違い。2人は麻布中学で教師と生徒として出会っていたか。西村は、岩本を通して同じく麻布中学校のOBで神戸に住む伊藤の存在を知り、接触をはかっている。しかし、伊藤も岩本もへちま倶楽部の会員になったかどうか不明。少なくとも、『金曜』48号,昭和28年2月の「初号以降執筆者」に名前はない。
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 西村の蔵書印「西村蔵書」は、国文学研究資料館「蔵書印データベース」の「蔵書印DB西村蔵書」に登場。その「人物情報」によれば、旧蔵書はJGAゴルフ・ミュージアムに「西村貫一コレクション」として所蔵されているという。西村はゴルフ関係の文献だけを所蔵していたわけではない。『金曜』46号,昭和27年10月の「マルクスの手紙」では、明治4年6月18日付け宛先不明のマルクス書簡を昭和7年に親友の松井和宗からロンドン土産として貰ったことを紹介している。
 また、渡辺沢身「西村貫一氏所持のハーンの書簡」『日本古書通信』昭和54年9月号は、昭和25年7月5日付け英文毎日に西村が稀に見る蔵書家・愛書家で、ハーンの著作収集に特に執念をかけているとの記事が載っていると紹介。更に、『KOKORO』(明治29年)出版に当たり、巻頭に載せる子供の写真を借用したいという明治27年6月28日付け高木玉太郎宛ハーン書簡を西村が入手した経緯も記載されているという。驚くべきコレクターであった。一方、蒐集家や趣味人はたいてい変人でもあるが、西村のそんな側面は上記の岩本書簡からもうかがえる。
追記:「ざっさくプラス」によると、西村は『金曜』7号,昭和24年8月に「八雲の手簡:後半」と「僕と小泉八雲:八雲手簡入手の由来」を執筆している。
参考:「へちま倶楽部の西村貫一と雑誌『金曜』(へちま文庫)ーー『金曜』の終刊時期はいつかーー - 神保町系オタオタ日記」「へちま倶楽部(西村貫一主宰)の雑誌『金曜』の執筆者 - 神保町系オタオタ日記

パルコ文化が京都に殴り込み⁉ーーBooks Herringで、かわじもとたか氏企画「パルコ文化を創った八人の装丁本展」ーー

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 かわじもとたかさんから、「パルコ文化を創った八人の装丁本展」を予定通り開催するとの連絡がありました。京都市岡崎にある古書店Books Herring(ブックス・ヘリング)で10月16日(金)~18日(日)。山口はるみ湯村輝彦伊坂芳太良、石岡暎子、相田佐和子、吉田カツ、河村要助、ペーター佐藤の8人の装丁本展。3日間だけの開催なので、御注意ください。なお、時節柄「コロナ感染の急変により延期されることもあり、ネットで確認後おいでください」とのこと。無事、開催できるよう祈念しております。
 その後、東京の西荻モンガ堂で11月8日(日)~23日(月)開催されます。
参考:「ブックス・ヘリングから入手した松平斉光主宰祭礼研究会発行の『おまつり』 - 神保町系オタオタ日記

明治30年杉村楚人冠と三島海雲が京極で見物した快楽亭ブラック?の催眠術

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 一柳廣孝『催眠術の日本近代』(青弓社、平成9年11月)によると、明治30年前後催眠術ブームが一時期途絶えていた。

 明治二十年以降を通観するかぎり、催眠術はかなりの隆盛を誇っていたといっていいだろう。しかしそのブームも、明治三十年前後になって、いったん火が消えたようにとだえたらしい。(略)

 その下火になり始めた頃の明治30年京都の京極で催眠術を見学していたグループがいた。西本願寺文学寮の教師杉村楚人冠と学僧の三島海雲らである。山川徹『カルピスをつくった男』(小学館、平成30年6月)に『楚人冠』(現代書館平成24年7月)の著者小林康達から見せられた楚人冠の日記明治30年5月9日の条が出ていて、「催眠術観覧の為、大菅、三嶋、植松三人と相伴うて京極に至り、二時より之を見物す」とある。
 この時期地方で催眠術の実演をしていた人物としては、英国人の落語家快楽亭ブラックがいる。佐々木みよ子森岡ハインツ快楽亭ブラックの「ニッポン」』(PHP研究所、昭和61年10月)と小島貞二快楽亭ブラック伝:決定版』(恒文社、平成9年8月)によれば、ブラックは、明治29年神田の錦輝館で初めて催眠術を公開したのち、31年新京極で人情噺とマジック、催眠術を実演している。その後も催眠術を続け、明治37年6月には「催眠術治療法を研究、胃腸病院主と合同で治療を開始」と新聞に出ている。霊術家になる一歩手前だったのかもしれない。明治30年に楚人冠らが京極で見た催眠術も快楽亭ブラックが実演したものだった可能性は高そうだ。
 なお、その後来る明治36年前後の催眠術ブームについては、次を参照されたい。
・「『『食道楽』の人 村井弦斎』余話 - 神保町系オタオタ日記
・「明治37年の睡眠術狂言 - 神保町系オタオタ日記
・「明治36年前後の催眠術ブーム(その1) - 神保町系オタオタ日記
・「明治36年前後の催眠術ブーム(その2) - 神保町系オタオタ日記
・「明治36年前後の催眠術ブーム(その3) - 神保町系オタオタ日記
 余談だが、家蔵の『快楽亭ブラックの「ニッポン」』に押された蔵書印。まさか、會津信吾氏?
追記:「見世物興行年表:明治30年」によると、ブラックは明治30年4月に新京極で催眠術を演じていた。
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へちま倶楽部(西村貫一主宰)の雑誌『金曜』の執筆者

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 昭和20年代に西村貫一が関与した団体としては、へちま倶楽部、金曜会、全日本文化協会、神戸ユネスコ協会がある。このうち、へちま倶楽部の規約や会員は、「近代書誌・近代画像データベース」の「へちま倶楽部会則及名簿::近代書誌・近代画像データベース」で見ることができる。主な会員を挙げると、

安倍能成
天野芳太郎
安藤正次
池長孟
伊藤忠兵衛
大佛次郎
加藤玄智
岸田國士
城戸元亮
衣笠貞之助
木村毅
小日山直登
駒井卓
坂西志保
佐野学
渋沢敬三
下村海南
新明正道
太宰施門
田中耕太郎
辰野隆
竹中郁
富田砕花
長與善郎
忍頂寺務
野上素一
野村吉三郎
長谷川如是閑
福原麟太郎
藤原銀次郎
藤山愛一郎
古畑種基
牧野富太郎
増田五良
松井佳一
村松
宮地傅三郎
宮武外骨
村松梢風
森於莵
柳澤健
柳田國男
山崎延吉
山田耕作
山田孝雄
山田無文
湯浅八郎
湯川秀樹
吉田茂*1

 政財官学界のほか、文学者、画家や宗教者も含まれた錚々たる会員である。しかし、蔵書印さんがTwitterで書かれたように名義貸しに過ぎない者も多そうだ。そこで、へちま倶楽部の雑誌『金曜』の執筆者を見てみよう。
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 『金曜』48号,昭和28年2月に「初号以降執筆者」が載っている。少なくともこれに載った人は実質的な会員ということになる。上記会員名簿に記載が無かった人としては、荻原井泉水、落合重信、小磯良平澤田四郎作宮本常一などがいる。澤田は2巻1号(13号),昭和25年2月に「浦塩の正月」を書いているが、ネットで読める「澤田四郎作年譜・著述等目録」にしっかり記載があった。宮本は日記*2昭和22年10月27日の条に「へちま倶楽部へゆき、西村貫一氏に逢う。そこで昼食。そこへ松井佳一博士来る」とあるので、会員名簿に名前があってもよさそうなものである。執筆した号は不明。「海文堂書店日記」2011年11月11日に大佛や宮武が執筆者とあるが、会員ではあるもののこの執筆者一覧では確認できない。なお、冒頭に写真を挙げたのは、小磯による表紙の号である。
参考:「へちま倶楽部の西村貫一と雑誌『金曜』(へちま文庫)ーー『金曜』の終刊時期はいつかーー - 神保町系オタオタ日記

*1:住所が目白なので、内閣総理大臣の吉田ではなく、同名で元内務官僚・貴族院議員の吉田だろう。

*2:宮本常一写真・日記集成』別巻(毎日新聞社、平成17年3月)

カルピスを「初恋の味」にした驪城卓爾と三島海雲ーー厚生書店で見つけた『箕山遺稿』ーー

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 3ヶ月振りに行った初日の「たにまち月いち古書即売会」(大阪古書会館)。やはり、いいものがありますね。厚生書店出品の『箕山遺稿』(驪城芳子、昭和4年6月)。非売品、273頁、1,000円。驪城卓爾(こまき・たくじ)の遺稿集である。未亡人と思われる印刷兼発行者である房子の住所は、大阪府豊能郡箕面村平尾。同書は見覚えがあると思ったら、谷沢永一『紙つぶて 二箇目』(文藝春秋、昭和56年6月)に出ていた。「あとがき」によれば、

箕山遺稿』を見つけたのは、大阪梅田、阪急百貨店の古書即売会に於いてである。(略)その時だけ何やら得体の知れぬこの箱入本が、私を呼んでいるようにも感じられた。遺稿集とか追悼録の類いには、まだまだ埋もれている有効な文献が多いので、いつも必ず内容をうかがうのだが、今回は開いて見た瞬間に、”当り“と手応え十分である。(略)これだから即売会参上はやめられない。(略)

 わしも当たりを引いたようだ。特に谷沢が注目したのは、カルピスを発明した三島海雲による回想で、驪城が「カルピスの一杯に初恋の味がある」というキャッチフレーズの作者だったということである。谷沢は、このネタを使って「文学に現れたコマーシャル総まくり」を『銀花』のコラムに書き、前掲書にも収録されている。
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 『箕山遺稿』の目次を挙げておく。驪城の年譜がないのが残念で、回想文から経歴にかかわるものを引用しておく。

・石丸梧平「思ひ出の断片」
「自分の雑誌『人生創造』誌上で、目下執筆中の「自叙伝」中で、心ゆくばかり会はう」
「大正二年或は三年の頃だつたと思ふ。驪城君は、大谷光瑞氏の二楽荘の中学校に勤めてゐた」
「折口[信夫]君が職を辞して上京したので、その後任として今宮中学に来たのが驪城君である。(略)それ以来十五年間今宮中学に勤めて居た訳である」
・松原致遠「驪城卓爾君を憶ふ」
「互ひに十八歳で、私は田舎の仏中から高輪へ転じ、君と同級であつた」
「菅三誘と三人で、三人とも十八歳であつたから十八文社といふを結び、「三日月」といふ回覧雑誌を出した」
「萬朝報の十円懸賞の短編小説(略)君は二回もその選に入つてゐる[。]第一回は十九歳位のときである」
・梅原真隆「幼き頃の思ひ出」
「高輪学院において驪城さんと相識るに至つた」
「二年ばかりすると、大きな学校騒動が惹起され(略)みんな退学の処分をうけ(略)驪城さんは東京にのこつた笞である」
「本郷の櫻井義肇先生のお宅で、御自慢の麦飯の御馳走をいたゞいて懇諭をうけたり、(略)大森の杉村縦横先生の寓をおとづれて訓戒されたり」
「福井の仏教中学*1に教師として赴任された」
三島海雲「思ひ出」
「二十年前、私が北京や蒙古でいろ/\の画策をして居た頃、私の事業上の欠陥を指摘して呉れた」
「カルピスの一杯に初恋の味があるなる文句を創作し、カルピスの名を揚げて呉れた」
・三宮元勝「驪城君を懐ふ」
「余が君と相識るに至つたのは大正三年の春三月、君が今宮中学に赴任してからのことである」
「国語漢文科の中堅」

 三島とカルピスについては、平成27・28年にアサヒラボ・ガーデンで、30・令和元年に箕面市立郷土資料館で展覧会が開催された。私はどちらも行ったのだが、驪城の経歴が紹介されていたのか記憶がない。山川徹『カルピスをつくった男三島海雲』(小学館、平成30年6月)にも、大正9年に三島を訪れた旧制中学校の教師である驪城について、「文学寮時代の後輩である」とするだけである。
 ネットで検索すると、「タッキーブログ」2018年11月30日がヒットし、驪城は箕面市の驪城山安養寺(浄土真宗本願寺派)の住職を継ぐ予定だったらしい。詳しい経歴は、吉永さんが気が向いたら調べてくれるかもしれない。
 最後に、本書から「初恋の味」が出てくる「青春礼讃」を挙げておこう。

  カルピスの一杯が
少年者には「あこがれの味」と慕はれ
青年者にに[ママ]「初恋の味」と歌はれ
老年者には「思ひ出の味」と親しまれる

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*1:明治41年?)6月28日付け書簡は「第二仏教中学同窓会々員諸君」宛で、「今回辞任上京」とある。

『レスプリ・ヌウボウ』(ボン書店)同人の田尻宗夫旧蔵?『早稲田広告学研究』(昭和12年)

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 大阪古書会館で唯書房から買ったと思われる『早稲田広告学研究』9号(早稲田大学広告研究会、昭和12年10月)が出てきた。今広告研究会というと、広告の研究なんかせずに女の子を追いかけるサークルというイメージができてしまった。しかし、この研究会は目次にあるように真面目な団体である。
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 『早稲田大学商学部百年史』(早稲田大学商学部、平成16年9月)によると、早稲田大学広告研究会は、大正2年開催の創立30周年の展覧会終了後、参加者だった学生・教員により大正3年1月に設立された。会長に商科長の田中穂積、副会長に伊藤重治郎、顧問に平沼淑郎、小林行昌の2教授が就任したというので、単なる学生のサークルではなかった。本誌は、昭和5年研究会が創刊した『広友』と、大正12年3月創立のOB組織「早稲田広告学会」が大正15年6月に創刊した『広告学研究』を統合して昭和11年に創刊したものである。
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 本誌の裏表紙に「田尻宗夫」というスタンプが押されていた。調べてみると、戦前大阪を中心に活躍した同名の詩人がいた。島野一衛編『日本詩選集1928年版』(改革詩壇社*1昭和3年1月)の「詩人宿所録ーー昭和二年十二月現在ーー」によれば、大阪市西成区鶴見橋北通に住んでいた。また、志賀英夫『戦前の詩誌・半世紀の年譜』(詩画工房、平成14年1月)から田尻が執筆した詩誌を拾うと、

・『表現詩人』2巻10号(昭和2年10月) 表現詩人協会(大阪市東区)
・『蒼空に鳴る矢』昭和2年9月創刊 裸芸術社(大阪大今里)
・『名古屋詩人』昭和2年10月創刊 麦屋南荘
・『装甲車』昭和2年11月創刊 装甲車詩社(兵庫県川辺郡)
・『詩歌線』昭和3年5月創刊 扇港詩人社(神戸市)
・『神戸詩人』昭和3年7月創刊 神戸詩人協会(神戸市)
・『PEPEE』*2昭和8年 ぺえぺえ発行所(大阪住吉区)
・『南苑』4巻1号(昭和10年1月) 南苑発行所(京城府)
・『詩潮』昭和9年2月 詩潮社(大阪東淀川)
・『レスプリ・ヌウボウ』昭和9年11月創刊 ボン書店(雑司ヶ谷)
・『La Fenetre』昭和3年7月創刊 窓社(大阪市北区)

 大阪を中心に広く活躍していたことが分かる。戦後も『詩と真実』6号(関西詩人会、昭和28年4月)等に寄稿している。この田尻が旧蔵者と同定はできないが、大手拓次のように詩人とコピーライターを掛け持ちした例もあるので、繋がる可能性はある。詩人田尻宗夫の旧蔵書が大阪の市会に出て、石神井書林がかっさらっていったなんてことはあっただろうか。

*1:前橋市王寺町332に所在

*2:「詩誌一覧索引」に記載はないが、『花束を抱いて蒼空を行こう』昭和8年6月創刊、心雫詩人社の広告に記載

へちま倶楽部の西村貫一と雑誌『金曜』(へちま文庫)ーー『金曜』の終刊時期はいつかーー

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 増田五良『金曜抄三題』(五典書院、昭和42年)が出てきた。100円の値札シールが貼ってあるので、三密堂の均一台か。目次も挙げておく。
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 「前書」によれば、神戸へちま倶楽部の西村貫一の主唱で発刊された同人雑誌『金曜』(昭和24年1月から48号まで発行)に掲載された自身の稿から3篇を選んだ。同人だった西村、忍頂寺務、池長孟、川島禾舟ら、物故した者が少なくなく、同人故友を偲ぶためという。「おくがき」には「知友に贈呈のため私家版として別に百部を摺る」とあり、「日本の古本屋」に出ている昭和43年版は、この私家版だろう。
 私が初めて西村を知ったのは、山口昌男内田魯庵山脈』(晶文社、平成13年1月)だと思う。

 西村旅館は明治創業で、満州をはじめとして東アジア関係で要人の出入りが多かったとき、その大半がこの旅館に止宿したので、世にも知られていた。『西村旅館年譜』という旅館の日記が私家版で出されている。西村貫一は戦前日本の最良の国際人の一人で、ゴルフ文献の研究家でトップの人であった。令息はイタリア文化研究家で、「分流」というイタリア・地中海レストランの経営者である。娘さんは京大名誉教授、社会学作田啓一氏の令夫人で、作家であった。

 柳田國男も西村旅館に泊まっていて、年譜*1明治20年8月31日の条に「神戸の最高級と言われている西村屋に泊まる[『故郷七十年』では九月一日]」とある。経歴は、『兵庫県人物事典』中巻(のじぎく文庫、昭和42年10月)から要約すると、

明治25年9月生
神戸港の名物西村旅館の長男。3歳で両親と死別し、乳母や女中に育てられた。
・神戸小学校から関西学院に入学したが、中学5年の時に担任の先生と喧嘩して放校となり、麻布中学に転校
・卒業して神戸に帰るも、旅館を継ぐ気はなく、20歳で外遊。
・音楽に魅せられ、神戸に帰って日本初のマンドリンクラブを結成
・大正7、8年頃、夫婦でゴルフに熱中し、六甲等のゴルフ大会に出場、日本人で初めて優勝。世界中のゴルフ書を収集し、『日本のゴルフ』を出版
・昭和21年1月「百人会」から発展させ、「へちまくらぶ」というクラブハウスを建て、政治家、芸術家、会社重役等300人の「へちまくらぶ」をスタート
・「全日本文化協力会」を組織し、ポケット版の雑誌『金曜』を発行。昭和24年1月創刊から28年2月まで続けた。子の雅貫と雅司は特殊カメラ研究家となった。
昭和35年2月没

 このほか、文献としては湊東古書四時雑記「へちま倶楽部と貫一」『ほんまに』14号(くとうてん、平成23年11月)があるが、未見。
 ところで、忍頂寺が同人だったということで、「蔵書印」様にいただきながら宝の持ち腐れだった『近世風俗文化学の形成:忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺:国文学研究資料館公募協同研究成果報告』(国文学研究資料館平成24年3月)を使う時が来ました。内田宗一「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録・解題(附・差出人氏名リスト)」には西村の書簡13通(昭和21年~26年)の記載内容の要約が載っている。そのうち昭和22年7月消印の封書に、印刷物が3点。「関西文化協会」を「全日本文化協会」と改める報告、「全日本文化協会会員規約」、「全日本文化協会会員名簿(1947年夏現在)」が入っていた事が分かる。また、肥田晧三・近衞典子共編「増補改訂忍頂寺務著述目録」には、忍頂寺の『金曜』への寄稿として、1巻1号,昭和24年1月から3巻9号(33号),昭和26年10月までのうち8冊が記載されている。肥田先生のことだから、『金曜』の揃いを持ってるのだろうなあと思ってしまう。
 さて、肥田先生も含めて、読者の皆様を驚かせてみせよう。『金曜』の終刊時期である。既に示した文献では、4巻12号(48号),昭和28年2月ということになる。肥田先生も前掲書の「忍頂寺務氏の著作を集める」で「全部で四十八冊出ています」としている。しかし、ここに5巻1号(49号),昭和28年5月がある。表紙、目次と奥付を挙げておく。
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 元々48号の増田「読者にお報らせ」には、第4巻を完了すること、増田が担当していた編集を始め会計その他の事務から離れ、『金曜』は世話人西村の手で継続する旨が記載されていた。『金曜』は、実際に継続されていたことになる。はたして、50号以降も出たのであろうか。

*1:柳田國男全集』別巻1(筑摩書房平成31年3月)