神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

カルピスを「初恋の味」にした驪城卓爾と三島海雲ーー厚生書店で見つけた『箕山遺稿』ーー

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 3ヶ月振りに行った初日の「たにまち月いち古書即売会」(大阪古書会館)。やはり、いいものがありますね。厚生書店出品の『箕山遺稿』(驪城芳子、昭和4年6月)。非売品、273頁、1,000円。驪城卓爾(こまき・たくじ)の遺稿集である。未亡人と思われる印刷兼発行者である房子の住所は、大阪府豊能郡箕面村平尾。同書は見覚えがあると思ったら、谷沢永一『紙つぶて 二箇目』(文藝春秋、昭和56年6月)に出ていた。「あとがき」によれば、

箕山遺稿』を見つけたのは、大阪梅田、阪急百貨店の古書即売会に於いてである。(略)その時だけ何やら得体の知れぬこの箱入本が、私を呼んでいるようにも感じられた。遺稿集とか追悼録の類いには、まだまだ埋もれている有効な文献が多いので、いつも必ず内容をうかがうのだが、今回は開いて見た瞬間に、”当り“と手応え十分である。(略)これだから即売会参上はやめられない。(略)

 わしも当たりを引いたようだ。特に谷沢が注目したのは、カルピスを発明した三島海雲による回想で、驪城が「カルピスの一杯に初恋の味がある」というキャッチフレーズの作者だったということである。谷沢は、このネタを使って「文学に現れたコマーシャル総まくり」を『銀花』のコラムに書き、前掲書にも収録されている。
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 『箕山遺稿』の目次を挙げておく。驪城の年譜がないのが残念で、回想文から経歴にかかわるものを引用しておく。

・石丸梧平「思ひ出の断片」
「自分の雑誌『人生創造』誌上で、目下執筆中の「自叙伝」中で、心ゆくばかり会はう」
「大正二年或は三年の頃だつたと思ふ。驪城君は、大谷光瑞氏の二楽荘の中学校に勤めてゐた」
「折口[信夫]君が職を辞して上京したので、その後任として今宮中学に来たのが驪城君である。(略)それ以来十五年間今宮中学に勤めて居た訳である」
・松原致遠「驪城卓爾君を憶ふ」
「互ひに十八歳で、私は田舎の仏中から高輪へ転じ、君と同級であつた」
「菅三誘と三人で、三人とも十八歳であつたから十八文社といふを結び、「三日月」といふ回覧雑誌を出した」
「萬朝報の十円懸賞の短編小説(略)君は二回もその選に入つてゐる[。]第一回は十九歳位のときである」
・梅原真隆「幼き頃の思ひ出」
「高輪学院において驪城さんと相識るに至つた」
「二年ばかりすると、大きな学校騒動が惹起され(略)みんな退学の処分をうけ(略)驪城さんは東京にのこつた笞である」
「本郷の櫻井義肇先生のお宅で、御自慢の麦飯の御馳走をいたゞいて懇諭をうけたり、(略)大森の杉村縦横先生の寓をおとづれて訓戒されたり」
「福井の仏教中学*1に教師として赴任された」
三島海雲「思ひ出」
「二十年前、私が北京や蒙古でいろ/\の画策をして居た頃、私の事業上の欠陥を指摘して呉れた」
「カルピスの一杯に初恋の味があるなる文句を創作し、カルピスの名を揚げて呉れた」
・三宮元勝「驪城君を懐ふ」
「余が君と相識るに至つたのは大正三年の春三月、君が今宮中学に赴任してからのことである」
「国語漢文科の中堅」

 三島とカルピスについては、平成27・28年にアサヒラボ・ガーデンで、30・令和元年に箕面市立郷土資料館で展覧会が開催された。私はどちらも行ったのだが、驪城の経歴が紹介されていたのか記憶がない。山川徹『カルピスをつくった男三島海雲』(小学館、平成30年6月)にも、大正9年に三島を訪れた旧制中学校の教師である驪城について、「文学寮時代の後輩である」とするだけである。
 ネットで検索すると、「タッキーブログ」2018年11月30日がヒットし、驪城は箕面市の驪城山安養寺(浄土真宗本願寺派)の住職を継ぐ予定だったらしい。詳しい経歴は、吉永さんが気が向いたら調べてくれるかもしれない。
 最後に、本書から「初恋の味」が出てくる「青春礼讃」を挙げておこう。

  カルピスの一杯が
少年者には「あこがれの味」と慕はれ
青年者にに[ママ]「初恋の味」と歌はれ
老年者には「思ひ出の味」と親しまれる

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*1:明治41年?)6月28日付け書簡は「第二仏教中学同窓会々員諸君」宛で、「今回辞任上京」とある。