神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

吉井勇と河上肇の日記に記録された馬町空襲の真実

吉井勇の誕生日なので、吉井ネタを。吉井勇の日記が府立京都学・歴彩館に所蔵されていて、細川光洋静岡県立大学教授により、「吉井勇の戦中疎開日記(上)(中)」が発表された。吉井日記の内、特に疎開する前の日記に京都市への初の空襲である馬町空襲(昭和20年1月16日)に関する記述があることが発見され、昨年3月京都新聞の記事になり、また同館の「吉井勇日記にみる馬町空襲 | 京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』」で該当部分が公開されているし、府立図書館でも最近パネル展示があった。吉井の日記昭和20年1月18日の条には「死者三十名ほど」と書かれているという。なお、同論文によると、歴彩館は同年6月28日及び7月3日付け吉井宛谷崎潤一郎の書簡を所蔵している。
馬町空襲について記載のある日記としては、従来河上肇の日記が知られている。『河上肇全集』23巻(岩波書店、昭和58年11月)から引用すれば、

(昭和二十年)
一月十六日 (略)
夜半爆音と飛行機の音にて眼さむ。ややありて警戒警報出づ。東山方面に相当の被害ありたるものの如し。新聞紙には出でざるも、死者十七名、負傷者百二十名、家屋倒壊二百と伝ふ。(略)
一月二十一日 (略)東山方面爆弾による死者は、その後の死亡者を合せ、四十七名に及べりといふ。(略)
五月十一日 (略)米機来襲、府立病院附近へ投弾の由なり。(略)
六月二十七日 (略)昨日の空襲にて、千本中立売方面に爆弾落下、死者百余名に上りし由。(略)出水学区のみにて落下爆弾八個、全焼倒壊家屋一六八軒、罹災者七八〇人、死者四四人、外に行方不明六人。

馬町空襲の他、5月の御所空襲と6月の西陣空襲も記述されている。馬町空襲の被害は、資料によって異なるが、馬町空襲を語り継ぐ会のホームページ「馬町空襲を語り継ぐ会」によると、死者34人、負傷者56人、家屋の全焼・全壊31戸、半壊112戸とされている。河上の日記では、死者47人、負傷者120人、家屋倒壊200戸である。死者については41人とする説もあるので、案外河上の日記の記載の方が真相に近いのかもしれない。戦前の知識人は万一の事を考えて日記の記載には注意を払った。特に河上のような逮捕・勾留の経験者は日記の記載には細心の注意を払っていただろう。空襲の被害状況を日記に記載することもまずかったのではないかと思うが、情報源を隠すことには注意を払ったのだろう。誰から聞いたのか、記録に残して欲しかったものである。