神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

河上肇が通った臨川書店と一信堂

河上肇は戦時中昭和16年12月からは京都市左京区聖護院中町に、18年4月からは吉田上大路町に住んでいた。その間の日記*1には、進々堂でパンを買ったり、ナカニシヤで本を買ったり、古書店に通ったりしたことが記録されている。そのうちの古書店について紹介しておこう。当初は、今もある臨川書店をよく利用していた。たとえば、

(昭和十七年)
三月二十七日(金) 朝、石田憲次氏宅まで挨拶にゆく。不在にて遇はずして帰る。帰途、臨川書店に立ち寄り、宋詩鈔四冊(活字本、十円八十銭)を買うて来る。(略)
十一月二日(月) (略)午前中、臨川書店まで散歩す、別に欲しき本なし、安心して帰る。

欲しい本がなくてがっかりしたのではなくて、安心して帰るというのが面白い。この辺の微妙な心理は古本者なら覚えがあるだろう。
昭和17年7月1日には「寺町の古本店」をのぞき、同年10月13日には「熊野神社近くの本屋」で三好達治『春の岬』などを買っているが店名の記載はない。
昭和18年になると、もっぱら丸太町の一信堂に通っている。

(昭和十八年)
四月十日(土) (略)今日警戒警報解除され、夕食前初めて外出、丸太町の古本店一信堂まで往復。(略)
四月二十六日(月) (略)午後丸太町の一信堂までゆき娯楽用に捕取[物]帖をかりて来る。(略)
(昭和十九年)
十月二日 (略)午前中浩子を伴ひて熊野神社附近の一信堂まで、秀のために貸本を貸(ママ)りにゆく。

金沢文圃閣から『出版流通メディア資料集成(三)』第二巻として復刻された辻井甲三郎編『全国主要都市古本店分布図集成 昭和十四年版』(雑誌愛好会、昭和14年5月)で丸太町の古本屋を見てみると、
東大路から寺町にかけて、
北側は、不識洞、一信堂、創造社、マキムラ、仙心洞、進文堂、丸三、細井、田中、狩野、古田、日ノ出、春正堂、麻田、佐々木、
南側は、いく文、三書堂、翰林堂、マルヤ、堀田、吉田、国井、彙文堂である。
現在もあるのは、創造社、マキムラ、彙文堂*2だけである。不識洞は建物と看板は残っている。これによると、一信堂は創造社の東側にあったらしい。『京都書肆変遷史』には、「一信堂後水明社」が立項されているが、昭和5年左京区田中門前町で一信堂として創立され、7年5月水明社に変更、16年頃廃業という書店であり、無関係のようだ。『全国古本屋地図改訂増補版』(日本古書通信社、昭和61年11月)を見ると、創造社の東に一信堂があり、「歴史、自然科学等の学術書がきれいに整理されている」とある。比較的最近まで存在したようだ。

*1:河上肇全集』23(岩波書店、昭和58年11月)

*2:現在は北側にある。