神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『純正真道』に酒井勝軍と荒深道斉の往復書簡

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昨日の研究会では結局古本バトルに参加。「検閲」と言うべきところを「事前検閲」と言ったりして、やや冷や汗ものであった。持って行ったのは、既に紹介した『神代文化』(神代文化研究所)、人生創造支部連盟機関雑誌『交響』のほか荒深道斉の『純正真道』4巻5号(純正真道研究会出版部、昭和8年5月)の部分的コピー。コピーは昔吉永師匠か、剣岩の場所を訊きに行った道ひらき西宮支部(?)でもらったのだろう。コピーの写りは悪く、写っていない行もある。『純正真道』の原本は一冊も持っていないが、面白そうである。金沢文圃閣が「日本の古本屋」に創刊号からの不揃い43冊*1をいい値段で出しているが、手が届かない(´・_・`)
さて、コピーは「酒井勝軍氏と書信の交歓」と題して、酒井と荒深の往復書簡が掲載されている。前置きとして、3[ママ]年前に酒井の『モーセの裏十誡』(国教宣明団、昭和6年12月)を読んでから酒井がユダヤ人研究に熱心なことに感心していた。3月24日突然書簡が来て、酒井が竹内文献に熱心な信仰を持つことを知ったという。荒深自身は、昨冬三浦関造から磯原神宮の概況を知り、次いで三條彦之から竹内文献の訳本の寄贈を受け内容を知ったらしい。三條彦之という人物は初耳である。
さて、酒井からの書簡は、
・前田から荒深著の『八咫鏡』(純正真道研究会本部、昭和7年12月)を入手したこと
・数年前*2竹内文献を見てから、数十年来のトーラ及びバイブル中の日本に関する研究を棄て、竹内文献に立脚して小著3冊を発行
・荒深は竹内文献を見てなく、記紀以外に正史がないと信じていて、そのため研究に事実と合致しない所があるので、是非竹内文献を通覧されたい。
・荒深著には神鏡・神剣を実在の物体ではないとあるが、ヒヒイロカネ製で実在する。ヒヒイロカネの大金塊は先月入手した。
荒深からの返信(3月27日付け)は、
・自分は、若い頃日比谷大神宮に奉仕し、神宮教(現神宮奉斎会の前身)の教校で本居、飯田、小中村博士等より皇典研究の講授を3年受けた。その後、紡績事業に携わったが、大正11年大病にかかり、回復後は実業方面に職を執ることができなくなった。
記紀の復習を始めたが、記紀共に宇宙生命の進化説なりとの新解釈を自覚して、昭和3年には純正真道研究会の会長に推された。
記紀を見ると、何物か自分の背後から意思を指導するようで、3千年前の世相を語る時は道臣忍耐日長尾命(略)1万5千年前の事は在真日武花幸彦命等その当時の在世人霊なりとて、親しく見聞した事項を口にせしめ筆にせしめ示され、2千余枚の筆記を累ねた。
記紀天孫降臨後179万年の史実を欠如している点が残念で、将来内地某所の秘岩庫から世に出るべく、それまでは在真日子命等の宣示する天津古世見により、天降後5百代の天皇の御名及び史蹟の霊示があり、それを正史とするのが、当会の主意である。
竹内文献は決して正史に非ずと断言する。
原文では「神代日本正史」や「竹内家古文書」などとあるが、「竹内文献」に統一した。酒井が天津教の秘宝にすっかり魅入られたのに対し、荒深は霊示により得られた自身の文献を誇示していたことがわかる。ただ、『思想月報』89号(司法省刑事局、昭和16年11月)の「元天津教信者の言動並同教支持団体の動向」に天津教支持団体として荒深の天孫文化研究会があがっているので竹内文献から完全に遠ざかったわけではないようだ。いわゆる偽史運動が盛んだった戦前には、他にも酒井の『神秘之日本』、中里義美の『神日本』、田多井四郎治らの『神代文化』といった雑誌・新聞があった。探せばまだまだあるだろう。
コピーには続いて小圷三郎「六甲山神籠探査登山日記」が掲載されている。荒深と共に鏡座や剣座を調査した記録である。荒深が昭和7年9月に発見した芦屋の剣座(剣岩)には、吉永師匠や理学部のU君と探索に行ったが懐かしい思い出である。
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*1:タイトルは『真人界』(昭和5年7月創刊)→『純正真道』→『素下霊』と変遷したようだ。

*2:昭和4年。「中山忠直と竹内文献」参照

石丸梧平の人生創造支部連盟機関雑誌『交響』創刊号

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今月15日人文研で第19回「仏教と近代」研究会&宗教雑誌ワークショップ第2回「雑誌メディアの近代仏教」開催。今度は出番がないので、気楽に聞けそう。詳しくは、「「仏教と近代」研究会 : 第19回「仏教と近代」研究会&宗教雑誌ワークショップ第2回「雑誌メディアの近代仏教」

吉永進一 趣旨説明
武井謙悟 「仏教雑誌研究の変遷ーー保存・利用・活用ーー」
大澤絢子 「人生論としての親鸞と禅ーー石丸梧平の『人生創造』」
司会 石原和
コメント 赤江達也
第2回宗教雑誌古本バトル

石丸の『人生創造』はわりとよく見る雑誌で、私もどこかに埋もれているが1冊持っていたと思う。石丸は『日本近代文学大事典』から要約すると、

石丸梧平 いしまるごへい
明治19・4・5~昭和44・4・8
小説家、評論家。大阪府生。早大卒業後地方の中学で教鞭をとったが、小説家を志望して第1次大戦後上京。処女作『船場のぼんち』(大8・5)を自費出版し、中央公論編集長滝田樗蔭に認められ文壇にデビュー。続いて『朝日新聞』に『山を降りた親鸞』『吉水の崩壊』を連載、『人間親鸞』(大11・1 蔵経書院)として世に出ると、当時のベストセラーに。大正13年6月個人雑誌『人生創造』を創刊。以後の文筆活動は主としてこれにより、彼一流の宗教的ヒューマニズムに立つ人生論文学論を展開した。

これに加えると、『早稲田大学校友会会員名簿 大正四年十一月調』(早稲田大学校友会、大正4年12月)によれば、「石丸五平」は明治41年高等師範部歴史地理科卒、肩書きは中外日報社文芸主任。
『人生創造』も削除処分を受けていて、『雑誌新聞発行部数事典』(金沢文圃閣)で一時期の発行部数がわかる。

14年163号 昭和12年10月 7500部
3月号    昭和13年3月 7000部
12号 昭和14年12月 8600部
194号  昭和15年2月 4500部
18年5月号 昭和16年5月 1000 部

昭和15年から発行部数が激減したことがうかがえる。削除処分の理由は最初の2回が風俗壊乱、後の3回が安寧秩序紊乱である。前者は大槻憲二の記事の性描写が露骨で引っかかった。
写真をあげたが、以前「日本の古本屋」経由で佐賀の西海洞書店から『人生創造』の支部連盟機関誌『交響』創刊号、16頁を入手。改元に対応できず、大正16年1月発行になっている。目次はご覧のとおりで、あまり面白い内容ではない。その中で「支部消息」に小堀本仁(立正大学内第260支部)が支部員の意見を報告していたのが参考になる。

阿部清徳ーー僕は石丸先生の宗教観が親鸞に偏してゐる所に思想家としての先生の欠点とそして不満とを持つてゐますね。又仏教観などがまだまだ徹底してゐないことはたしかだ。文芸論は徹底してゐますが他はどうしてもものたりなさを感ぜずにはおられない[。]これは止むを得ないであらうが然しあらゆる方面に亘つて全く新しい真に人生主義的態度を取るのがこよない先生の人格を慕ふ点です。
(略)

1行目はおかしな文章になっているが、『人生創造』本誌には石丸に批判的な記事は載らないだろうから、支部連盟の機関誌レベルには率直な意見が掲載されていて貴重と思われる。
(参考)「石丸梧平の『団欒』に「関西文士録」

戦後も活躍していた及川道子の父及川鼎寿

グーグルブックスの威力は凄いもので、オタどんが自力では到達できなかったであろう文献を示してくれた。クレス出版から復刻版が出ている文部省編『宗教要覧』(光風出版、昭和27年7月)である。ここに昭和26年4月2日現在の教宗系教団の現勢が出ていて、その中の「一粒会」に及川の名が見える。

一粒会
1 東京都千代田区西神田2丁目2番地 東方学会ビル
2 小平権一 及川鼎寿
3 主管者小平氏は元農林次官、及川氏は実業家で元株式株式会社クリスチャン=フード(25年解散)の社長であり、日本基督教団霊南坂教会の信者であつたが、既成教会に不満を感じ、特に農村自給教会を建立することを主目的として、25年12月新教団を設立した由。これは平信徒のみの教団で。[ママ]三鷹市下連雀町および武蔵野市吉祥寺(略)及川方に教会がある。なおこのほかに、宗教法人と同番地に財団法人一粒会(理事長小平権一)を設けて事業を行う。
宗教法人の事業計画は、(1)50村に1つの農村教会を建設し、各3町歩の農場を附属す。(2)霊安殿建設。(3)児童館建設、とあるが、現状については不明。

そのほか、鼎寿が明治学院の学生とする文献もあるようだ。明治学院ルートを調べれば、生没年がわかるかもしれない。
(参考)「女優及川道子の父にしてキリスト教社会主義者の及川鼎寿とシーラ倶楽部 - 神保町系オタオタ日記

福田屋書店から門野普光旧蔵の『清澤満之』(観照社)

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今年も下鴨の納涼古本まつりが近づいてきた。昨年は福田屋書店の200円均一コーナーが水田紀久先生の旧蔵書を放出して圧巻であった。写真の『清澤満之』(観照社、昭和3年9月)は水田先生とは多分無関係で、「門野普光」の旧蔵書のようだ。
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見返しには書き込みがあって、全部は読めないが、昭和3年10月に稲葉昌丸から送られたようだ。
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書き込みした人物「□□光」が門野かは不明。稲葉は本書に今川覚神と連名で「清澤君の事ども」を執筆している。清澤と稲葉は明治14年東京留学を命じられたり、29年寺務革新運動を企図したり、親しかった。門野については、さっぱり不明で、グーグルブックスで検索するとアメリカで布教をしていたようだ。本ノ猪君、暇な時に調べてみて。

古書からたちで買った相馬黒光『滴水録』に「滴水日記」掲載

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相馬黒光「滴水日記」昭和18年2月22日の条が載った『女性時代』について「昭和18年河井酔茗主催の文庫会に集まった誌友達 - 神保町系オタオタ日記」で言及した。その後、休店前の古書からたちでおまけしてもらった『滴水録』(相馬安雄、昭和31年2月)に昭和16年から18年までの「滴水日記」が収録されているのを発見*1。「田中清一」に関する記述があった。

(昭和十七年)
二月二十三日 日曜日
(略)
つづいて富士工業会社の田中清一という人から、頭山先生を通してまた一万円の寄附。その他小[ママ]額でも熱い志のこもつた寄附が続々あり、大衆の中にこの支持があつて印度の独立が行われる。私は感謝に堪えなかつた。
二月二十四日
(略)
ユダヤ研究」という雑誌に、ユダヤ人の予言というものがでている。これは外務省関係の雑誌「外交」に「ヘルマンの未来記」というのが出て、それから抄出したものだという。(略)

「富士製作所」ではなく、「富士工業会社」になっているが、やはり神代文化研究所を支援した田中だったようだ。仲介した頭山も竹内義宮『デハ話ソウ』(皇祖皇太神宮、昭和46年11月)の「主なる神宮拝観者と参拝者」で昭和10年中の拝観者に名前があり、田中同様竹内文献とは近い関係にあった。田中は戦後参議院議員になっていてWikipediaにも立項されているが、『昭和人名辞典』2巻から要約すると、

田中清一
富士製作所(株)社長 工作機械製作業
庵原郡袖師村
(工場)沼津市日ノ出町 (東京事務所)麹町区丸ノ内丸ビル内
[閲歴]明治25年9月3日福井県の田中教専の長男に生まれる。大正5年大阪工業専修校卒。昭和6年富士製作所を創立。先に大阪製材機工作所所長たり。

黒光が読んでいた『ユダヤ研究』は国際政経学会の『猶太研究』だろう。頭山と親しかった中村屋相馬愛蔵・黒光夫妻も竹内文献には近い関係があったのかもしれない。
(参考)「相馬黒光と酒井勝軍のデート」、
戦時下のユダヤ研究会と丸山敏雄の日記」、「国際政経学会常務理事増田正雄の敗戦前後

*1:「滴水日記」は『滴水録』収録に際して相当削除されていて、昭和18年2月22日の条の田中に関する部分もカットされている。島本久恵「あとがきとして」に「あまり大部となるために、沢山の日記其他を割愛した」とある。

女優及川道子の父にしてキリスト教社会主義者の及川鼎寿とシーラ倶楽部

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黒岩比佐子さんが亡くなる前、「あと10年生かしてくれれば」と泣いておられたと思う。黒岩さんには執筆予定の作品が幾つかあった。ヘレン・ケラー、婦人記者下山京子である。他にも、「忘れられた美人女優及川道子と堺利彦夫妻」のコメント欄にあるように女優及川道子の父及川鼎寿にも関心があったようだ。御健在であれば、『パンとペン 社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社)の文庫版に増補するか、別に一文を書いておられたかもしれない。
私は平成22年10月『秋田雨雀日記』の昭和6年11月8日の条に及川道子の記述を見つけて、早速ブログにアップしてしまった。しかし、それよりも黒岩さんを驚かす記述が他にあった。

(昭和十二年)
二月二十三日
(略)今夜、数寄屋橋の五合庵(及川道子の妹の店)で金田、大沢の諸君五、六人がぼくを慰むる会を開いてくれた。道子のお父さんもきた。この人は明治三十七、八年ごろのキリスト教的ソーシャリストで、エスペラントを最初にやった人だ。シーラ倶楽部“SHILA”(社会主義人道主義自由主義、アナルヒスト)なぞをやった人で、このころ、早稲田の白柳の「火鞭」なぞの運動と交渉を生じてきたのだ。野生社*1ーー春秋社のトルストイ全集なぞとの関係も興味がある。(略)
(昭和十三年)
十月一日
(略)夕方及川家へいく。父の鼎寿君がとても喜んでくれた。お母さんから道子さんの臨終の話をきいた。「私は正しい人間の生活をして来たから云々・・・」「私一人のためでなく、皆のために祈ってくれ云々・・・」涙が出た。和田君のデス・マスクは立派。
(及川道子の家を訪う。臨終の話をきいて泣かされた。)

鼎寿については、『近代日本社会運動史人物大事典』1巻(日外アソシエーツ)に立項されてはいるが、詳細は不明とされている。要約すると、

及川鼎寿 おいかわ・ていじゅ
生没年不明 
学生時代、片山潜らとキリスト教社会主義の文学雑誌『野の声』を出した。明治38年結成の社会主義的青年文学者の団体火鞭会のメンバー。労働文学で活躍した作家宮地嘉六に影響を与えた人物として知られるが詳細不明。女優及川道子の父。

また、同事典の神田豊穂(春秋社社長)の項には、明治33年頃、鼎寿、岡千代彦、片山潜らと『野の声』を創刊とある。これに加えれば、道子の自伝『いばらの道』(紀元書房、昭和10年3月)によれば、父鼎寿は、青年時代には、
霊南坂教会の青年部で活躍したり、
・呉の海軍工廠で働く職工達のために消費組合の建設に奔走したり、
・地方の農村青年のために『学芸と青年』という雑誌を独力で発行
したという。
一番気になるのは、秋田の日記にある「シーラ倶楽部」である。波勢さん、専門外のようだが何か御存知ないかしら。

*1:正しくは、野声社か。

内務省検閲官が残してくれた田多井四郎治・小寺小次郎の『神代文化』(神代文化研究所)

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学生時代から酒井勝軍、荒深道斉、鵜沢総明、田多井四郎治といった竹内文献に関わった人達の名前にキャアキャア言っていた。田多井が理事を務め、大湯の環状列石の発掘にも関わった神代文化研究所も当然知っていたが、機関紙『神代文化』は未見であった。ところが、平成27年11月西部古書会館の古本市でとうとう発見。内務省の受付印がある。この時期、内務省の元検閲官だった人の旧蔵書が東京の市会に出たようで、金文堂、魚山堂、古書かんたんむなどが内務省印のある雑誌等を古書市や店に出品していた。検閲官某は宗教、郷土史アイヌ等に関心を持っていたようで、その関係の雑誌や新聞を役得(?)で持って帰っていたようだ。おかげで、どこの図書館にもない機関紙を私が入手できた。そういえば、戦後も四畳半襖の下張事件で押収された『面白半分』が判決確定後に押収部数より相当減った部数しか返還されなかったというから、役得の慣例は引き継がれているのかもしれない。
私が入手したのは、秋桜書店出品で『神代文化』2部で300円。多分この10倍以上でも買っただろう。33号(昭和16年7月)と35号(同年10月)である。編輯兼発行人は理事の小寺小次郎。目次は写真のとおり。35号の座談会「日、独両国人の”神代文化を語る“座談会」が面白い。昭和16年9月16日丸之内常盤家で開催され、出席者は、

・日本側 林銑十郎大将、小磯国昭大将、一條公爵、研究所井上所長、小寺理事、田多井理事など
・独大使代理シュルツェ文化部長、ジュルクハイム教授、ワルデック博士など

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小磯がウィリアム・ペリームー大陸に言及している部分を写真で挙げておく。ペリーについては「「銀シャツ党」首領ペリーと古賀政男の弟古賀治朗」を、ジュルクハイム(デュルクハイム)については「情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その21)」参照。デュルクハイムはスメラ学塾のメンバーであった。
田多井と神代文化研究所については、大内義郎『神代秘史資料集成解題』(八幡書店、昭和59年8月)に

(略)昭和十三年頃、当時唯一の特殊軍需要[ママ]器材制[ママ]作所として知られていた静岡県沼津市の富士制[ママ]作所社長田中清一を資金のバックとして小寺小次郎が興した神代文化研究所で理事・所長の要職を占め、同じ頃所員となった安藤と並んで上津文研究家として活躍し、同十七年には大湯のストーンサークルの発掘を手懸けたが、昭和十八年頃、研究所の役員から身を引いている。(略)田多井が神代文化研究所の所長であった時期は、判然としないが、比較的初期の頃のようである。昭和十七年当時の田多井の肩書は研究所理事である(略)

とある。田多井が所長を務めた時期は私も知らないが、小寺の『言霊研究入門』(神代文化研究所、昭和15年10月)の巻末では所長は元東北帝大総長井上仁吉である。『神代文化』の揃いが発見され、八幡書店から復刻版が出れば、この辺りの謎が解けるのだが。
『神代文化』の発行部数だが、幸い(?)なことに削除処分を受けたため小林昌樹編・解説『雑誌新聞発行部数事典』に掲載されている。

21号 昭和15年6月 1744部
27号 昭和16年1月 2000部
30号 昭和16年4月 2000部
34号 昭和16年9月 2000部

入手したのが33号と35号だから、さすがに発禁となった号は持って帰らなかったのだろう。毎月20日発行なので、逆算すると昭和13年10月頃創刊ということになる。
この『神代文化』や中里義美主宰の『神日本』は、戦後の『さすら』や『日本神学』(『神霊文化』)といった「もう一つの日本」を顕彰する雑誌群へ連なる系譜と言えよう。
追記:今年の3月に創刊号、2号、6号、35号、36号、38号の6冊がヤフオクに出たようだ。画像では昭和13年9月創刊。