神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

初期の『宝石』に結集した詩人達と武田武彦

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私は「内田百閒より内田魯庵を大事に思いたい」方だが、百閒の戦前・戦中の日記が慶應義塾大学出版会から出たので、百閒の日記からネタを。中公文庫になった『百鬼園戦後日記』(小澤書店)だが、余りブログのネタに使える記載はなく、原稿の依頼に来る編集者の名前がフルネームで書かれているのが、多少役に立つくらいか。ほとんどの依頼を断っていて、次の『宝石』の場合も同様である。

(昭和二十二年)
七月十四日 月 二十六夜
(略)午下岩谷書店寶石編輯武田武彦来、原稿の依頼也、ことわる。(略)

『宝石』は、『「宝石」傑作選』(光文社文庫、平成16年1月)の山前謙「推理小説界の牙城だった「宝石」」によれば、

その創刊にかかわったのは、岩谷満(ルビ:いわやみつる)、城昌幸、武田武彦の三人である。明治時代に煙草でひと財産を築き上げた一族のひとりである岩谷は、岩谷健司の名で詩も書いていたが、戦後、城や武田と出会い、雑誌創刊を思い立った。(略)

さて、先日中之島の中央公会堂で開催された水の都の古本展で『宝石』の創刊号ほかが杉本梁江堂の出品で出ていたので何冊か購入。
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表紙に「探偵小説雑誌」とあるが、当初は詩の掲載にも力を入れたようだ。写真にもあるように、創刊号(岩谷書店、昭和21年4月)には、北園克衛「宝石詩抄」、岩谷健司「指の連想」、武田「手袋と葉巻」が掲載された。その他、山前編「「宝石」作者別作品リスト」からざっと抜き出すと、

大坪沙男 願望 昭和28年4月
長田恒雄 庭園事件 昭和21年7月
門田ゆたか 今年のサンタクロース 昭和24年12月
上林猷夫 新しい事件 昭和30年8月
北村太郎 ちいさな瞳 昭和31年1月
木原孝一 舞踏会 昭和21年11月 など
小林善雄 麦畑のアリバイ 昭和21年6月
近藤東 くちなしの花 昭和21年5月
嵯峨信之 氷上幻想 昭和25年2月 など
笹沢美明 美の秘密 昭和21年5月
関口修 油絵 昭和25年6月
竹内てるよ ばらと小刀 昭和21年12月
田村隆一 告発 昭和24年11月
長江道太郎 夢のなかのミステリー 昭和30年5月
中桐雅夫 あはれな探偵 昭和24年9月増刊号 など
中村千尾 神話 昭和30年12月
平林敏彦 ある朝の記憶 昭和30年4月
福田律郎 美しい骸 昭和21年12月
水田喜一朗 青と六人目の妻 昭和31年3月
村野四郎 庭園の悲劇 昭和21年10月
MORI 森の惨劇 昭和24年7月増刊号
山本太郎 寓話4 昭和31年4月

特に昭和20年代に詩も掲載していた傾向がうかがえる。創刊号に自ら詩を寄稿した武田は、その後も「アルセーヌ・ルパン」(昭和21年5月)など詩は合計14回掲載されている。経歴はネットで読める「Weblio辞書」によると、大正8年生、早大政経学部卒、昭和23年から『宝石』編集長、平成10年没。これに加えれば、ホームズ物などの翻訳書や岩谷書店の現代詩叢書から詩集『信濃の花嫁』(昭和24年2月)を刊行している。武田が百閒に執筆依頼をした頃の『宝石』は、江戸川乱歩幻影城通信」(昭和21年8月-23年4月、6月-26年1月)、香山滋「海鰻荘奇談」(22年5月-7月)、木々高太郎「紫陽花の青」(22年6月-7月)、横溝正史「獄門島」(22年1月-23年9月)などが連載されていた。武田は百閒にどのような作品を期待していたのだろうか。

百鬼園 戰前・戰中日記 上

百鬼園 戰前・戰中日記 上

戦時下における内閲の一事例ーー秋田雨雀『山上の少年』の内閲をする上月検閲官ーー

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これまで散々『秋田雨雀日記』(未来社)を利用してきた。劇作家のイメージが強く、戦後は共産党に入党しているので敬遠する人も多そうである。しかし、秋田の日記は意外な人物が登場して有用なので、是非とも読んでいただきたい。拙ブログでは例えば次のようなものがある。

仮性トンデモ本だった『秋田雨雀日記』
稲岡奴之助の娘と散歩する秋田雨雀
知られざる大アジア主義ネットワーク
ポール・ケーラス『仏陀の福音』のもう一人の訳者
忘れられた美人女優及川道子と堺利彦夫妻

惜しむらくは、索引の無いことと、「刊行のことば」に「私事にわたることで重複したようなところを省略した程度」とあるもののまったく記載の無い日が結構あることである。青田寿美先生の「『鴎外全集』第三十五巻日記索引(人名篇)」『森鴎外研究』9号のような人名索引があれば、どれだけ重要な発見ができるか。たとえば、5月23日の京都新聞朝刊で紹介された拓本コレクションの旧蔵者で「東本願寺南方美術調査隊」撮影班の野村直太郎、詳しい経歴は不明とのことだが、同一人物と思われる名が秋田の日記に登場する。これについては、また別途紹介したいと思う。さて、仮に『秋田雨雀日記』に人名索引が存在したとしても、それでも気付かない発見が今回できた。戦時下における内閲の例である。

(昭和十七年)
二月十二日
(略)午前中「金の星社」の奥村定也君が「山上の少年」の校正刷と内閲願いをもって来てくれたので、午前一時ごろ家を出て情報局の傍らの内務省出版検閲課[正しくは検閲課ーー引用者注]へ行く。上月検閲官は議会へ行き、主任も留守なので一課員(多分鎌田氏)に一任して帰った。一週間位で模様が判るはずだ。(略)
(「山上の少年」内閲願い。)
二月二十日
(略)
午後十時すぎ、情報局傍出版検閲課を訪い、上月検閲官に逢い対談した。もと雑司谷に住った人で、友成君たちの友人だった。二十一日旧参謀本部あとに移転するので大変いそがしそうだった。近く通読してくれる約束をしてくれた。
(略)
二月二十六日
(略)今朝「山上の少年」に内検閲のことで情報局を訪うた。今度の情報局はもとの参謀本部のあったところで兵隊さんたちがトラックで荷物を搬んでいた。出版検閲局では上月検閲官に逢うと、とてもいそがしそうだった。室は古典的な立派なものだが、まだ片づかないでいた。「大いそぎで見て、直接出版書肆と連絡をとりますから」というのでよろしく頼んで帰った。
(情報局出版検閲課。)
三月十三日
(略)「金の星」社の「山上の少年」の内閲がおりたというので奥村君が持ってきてくれた。(1)キリスト教の神観について。(2)牢屋、囚人等の二、三の言葉について注意があったので、全部で三、四箇所訂正させられた。
(略)
(著書の内閲の問題。妙な検閲!(略))
三月十四日
(略)昨日「山上の少年」の内閲がおりたので安心した。検閲には妙な機械主義がある。官吏の芸術に対する理解の問題もある。この状態は相当長くつづくものと見なければならない。(略)
(「山上の少年」内閲がおりた。)

引用が長くなったが、内閲の経過が詳細にわかり、秋田の率直な感想も書かれていて貴重なものだろう。
牧義之『伏字の文化史 検閲・文学・出版』(森話社平成26年12月)によると、内閲は法外便宜措置として、大正中期に始まったが、大正14年頃には一般的運用はなされず、昭和2年6月に正式に廃止された。ただし、廃止以後も昭和7年の『日本資本主義講座』(岩波書店)や昭和18年1月1日の『朝日新聞』の例があるという。今回の発見で、もう一つ追加できた。そもそも秋田が内閲を特に依頼したのは、『太陽と花園』(フタバ書院、昭和16年10月)が同年11月に「人生社会に対する諸矛盾を扱い著者の思想運動に対する衝動が感受せらる」(発禁年表)として発禁になったため、次作では内閲を依頼したと思われる。日記には、

(昭和十六年)
十一月十五日
(略)
フタバ書院の唐沢君が来て、「太陽と花園」が子供の読み物として適当でない個所があるというので発売禁止になったことを報告してくれた。やはり人間による禁止と思われる点もあるが、やはり自分の現実に対する認識の弱いことを感じた。静思しろ!しかし、検閲制度の不合理!
(略)
十二月十六日
(略)ひるごろ警視庁の特高第一課の蘆田氏に逢い、その足で四階の検閲課で阿部検閲係に逢い、「太陽と花園」についての意見を求めた。それから内務省出版検閲課に主任を訪い、出版物の内閲を依頼した。内務省では割合に好意を持っていてくれた。個人に対することは問題にしていないということなので一安心した。(略)

とある。『山上の少年』は国会図書館のデジタルコレクションで見られるが、昭和17年4月10日に無事発行された。戦時下に粛々と(?)内閲した上月検閲官は上月景尊と思われる。

彙文堂異聞 京はわが先づ車よりおり立ちて古本あさり日をくらす街

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森鴎外大正6年12月帝室博物館総長兼図書頭となり、以後秋には正倉院曝涼のため奈良を訪問することになる。その節は京都の古本屋、具体的には今もある彙文堂を訪問していた。鴎外の日記によると、

(大正七年十一月)
二十八日。(略)往京都。訪彙文堂。(略)
(大正八年)
十一月一日。土。朝至京都下車。閲於彙文堂。(略)午後至奈良。入博物館官舎。(略)
(大正九年)
十一月一日。月。雨。抵京都下車。訪彙文堂。(略)午時入寧楽。寓于博物館官舎。

そして、鴎外は「奈良五十首」*1で一番目に、
京はわが先づ車よりおり立ちて古本あさり日をくらす街
と詠んでいる。余談だが、鴎外とは逆に京都の古本市に来た書物蔵さんらの一行が東京に帰る前に寄るのが書砦・梁山泊である。彙文堂の店主大島友直は大正11年6月に没*2、後を追うように鴎外も翌月に亡くなる。
さて、今は鴎外先生の代わりにわしが彙文堂で「古本あさり」をしている。といっても、鴎外のように大人買いはできないので外の100円均一台を漁るのである。ここの均一台も中々面白い物が出るので、うかうかしてると多分自転車で均一台巡りをしている林哲夫画伯に抜かれてしまうのである。先日は『神都日向』(神都高千穂宣揚会宣伝部、昭和12年3月)を発見。非売品、31頁。神都日向の神社、古墳、神話縁の地の写真集。目次の写真も挙げておく。
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今となっては、神話に関わるものの写真よりも最後のカリーと称する竹籠を背負った女性の写真の方が貴重かもしれない。
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(参考)鴎外と古書店については、「全財産を投げ打って『欽定四庫全書総目』を買った森鴎外」参照

*1:『明星』1巻3号(明星発行所、大正11年1月)

*2:野田宇太郞『文学散歩』18巻(文一総合出版、昭和52年7月)による。

戸川残花の長男戸川浜男の蔵書印

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弘文荘の反町茂雄は、数多い得意客の中でも中山正善、清野謙次、戸川浜男の3人と最も親しくしていた。中山は天理教の生き神様、清野は専門分野(医学・人類学)では世界的学者ということで多少の遠慮があったのに対し、実業家の戸川はまったく楽だったという。反町の『一古書肆の思い出』3巻(平凡社ライブラリー、平成10年9月)によれば、戸川の父親は戸川残花(本名・安宅)で、

浜男さんは、戦前は大阪の東洋棉花株式会社(今の総合商社トーメン)という、三井財閥系の有力な商社の専務取締役として盛名があり、戦時中は、軍の要請で中国へ出向し、北京の食糧公団の総裁を勤めて居られました。戦後は追放で、古巣の東洋棉花等にも近寄れず、不自由勝ちの御生活と察せられましたが、氏素性が良いだけでなく、名利を求めぬ恬淡な性格でしたから、どこか繊維関係の中小の会社の、名義だけの社長をつとめて、悠々自適の御生活でした。

という。この戸川浜男が、『秋田雨雀日記』(未来社)に出てきた。

(昭和十八年)
六月二十八日
(略)午前十一時半から移動演劇瑞穂劇団の島田友三郎君の結婚式に臨んだ。新婦は戸川民子といって、戸川残花の令孫だということを会場へきてはじめて知った。お父さんは残花翁の長男で技師で、書籍の蒐集家だそうだ。
戸川翁とは鬼子母神でたびたびお目にかかっている。幕臣で文部省の顧問格の人だった。三十才のころよく逢っているが、立派な白髪の人だった。
(午前十一半日比谷公園松本楼、島田友三郎結婚、戸川浜男長女民子。)

括弧は「凡例」によれば、「欄外の心覚え、メモ等」である。戸川が書籍の蒐集家であることは広く知られていたようだ。コレクターということで、「蔵書印データベース」を検索したら39件ヒット。ただし、浜雄が本名のようで蔵書印主は「戸川浜雄」とされ、「戸川氏蔵書記」「残花書屋」「賓南」「賓南過眼」の4つの蔵書印が見られる。

池袋の自由学園が不自由だった時代の『学園新聞』

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池袋の自由学園明日館へ行ったのは、もう15年以上前のことである。池袋の魔窟古書ますく堂はまだ存在しなかった。有料で案内してくれるが、しばらく「婦人之友社展示室」で待機した気がする。明日館はフランク・ロイド・ライトの設計した建物で、ホールが印象的で記憶に残っている。
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秋田雨雀日記』(未来社、昭和41年2月)に自由学園が出てくるので一部紹介しよう。

(昭和十年)
十一月三日
(略)自由学園デンマーク体操の会へゆく。南沢はすてきなところだ。ヴァレーの上に美しいライト式(遠藤技師*1)な学校がたっていた。デンマークへいってきた二人の女(卒業生)が指導していた。在郷軍人が野次っていたから怒ってやった。(略)
(昭和十二年)
十二月十二日
(略)午前十時ごろに池袋駅から南沢の自由学園へゆく。また先住民族の住居趾を見た。蘆花会でよくあう吉沢(?)という人にあった。この人の娘さんも自由学園をでたのだそうだ。(略)食堂で食事をしながら、ミスタ、ミセス両羽仁のお話をきいた。財部海軍大将が札幌農学校の教育精神について話していたが、建物の関係か、よく聞えなかった。食事後、講堂で「君が代」合唱、「青い鳥」の英語対話(幸福の国)「アブラハム・リンカーン」(南北戦争当時のグラントとリー将軍の対面)らがあり、学生の日誌朗読の後に「タンホイザー」の演奏があった。なかなか立派なできだった。コンダクターは相当な勝れた人だった。また食堂でお茶をのんだ。(略)

自由学園羽仁もと子と夫吉一により大正10年創立された。上記のような自由な雰囲気があった自由学園にも戦時下という不自由な時代がやってくる。手元に昨年2月京都古書会館の古本市で入手した『学園新聞』(自由学園学園新聞発行所)がある。シルヴァン書房出品。シルヴァン書房の紙もので大きいのは、戦前の地図や双六など私の関心外の分野の物でしかも値段が高いので黙殺することが多いが、この時は「大正10年新京極に誕生した京都美術館という名の画廊 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『美術館誌』(京都美術館、大正10年3月)など大当たりであった。入手したのは、158号(昭和18年10月30日)*2から161号(昭和19年5月30日)までである。特に女子部の生徒が大日本兵器の工場、中島飛行機の製作所、中島航空金属の工場で挺身隊として働く記事が目を引く。自由学園も自由でない時代となり、『学園新聞』も同号には次のような案内が載った。

本紙廃刊につき
時局の要請によつて学校関係の定期刊行物はすべて廃刊することゝなりましたので、我が学園新聞も本号を以て廃刊いたします。
(略)

*1:ライトの弟子で講堂(昭和2年竣工)を設計した遠藤新

*2:159号(昭和18年11月30日)は「158号」と誤植している。

古書からたちで『美楚羅』『加羅不禰』(からふね屋印刷所)の載った古書目録に出会う


からふね屋印刷所が印刷した雑誌は「からふね屋印刷所の堀尾幸太郎と白川書院の臼井喜之介 - 神保町系オタオタ日記」で紹介したが、他にもあったはずだと思っていたら、見つかりました。『瓶史』新春特別号(去風洞昭和9年1月)。

発行人は西川一草亭。瓢箪堂から復刻版が出ている。唐舟屋印刷所(からふね屋印刷所)の堀尾幸太郎と西川が親しかったことは「『書物礼讃』を印刷した唐舟屋印刷所の堀尾幸太郎・緋紗子兄妹ーー高橋輝次『古本こぼれ話〈巻外追記集〉』への更なる追記ーー」のコメント欄で御教示いただいていたが、確かに西川の雑誌の印刷も引き受けていた。
さて、大阪の古書からたちが店売りを3年間休業して通販のみになるというので、先週行ってきた。溜め込んだ古書目録を見させてもらって、芦屋市立美術博物館で開催された古本市の目録などを購入。

写真の「芦屋のちいさな古本市」(平成22年)の目録もその一冊。参加古書店は、街の草ロードス書房トンカ書店。そのほか、「ひとわく古本市参加店」として、本おや、古書ダンデライオンちょうちょぼっこ、善行堂などの名もある。ここに例の『美楚羅』や『加羅不禰』堀尾緋沙子追悼号の書影(街の草出品)が出ていた。11冊で73,500円、安からず高からずで、今出たらわしも注文するだろう。滅多に出ない雑誌だろうが、運がよければ、文庫櫂のtwitterや三密堂の100円均一コーナー、青空古本まつりで竹岡書店の3冊500円コーナーで出会えるかもしれないので、気長に待っていよう。

善行堂でロセッティが愛を詠う

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少し前に善行堂で小原無絃訳の『ロセッチの詩』(昌平堂川岡書店、明治38年10月)をゲット。「日本の古本屋」では、あきつ書店が38,880円を付けている。画家としてのロセッティは知ってるが、詩人としてのロセッティについては『D.G.ロセッティ作品集』(岩波文庫)が出てたなあと思うくらいである。やや色っぽい表紙と小原の訳なので購入。裏表紙の昌平堂のロゴマークも蜘蛛で面白い。
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小原無絃(本名・要逸)は、歌人原阿佐緒の最初の「夫」。秋山佐和子『原阿佐緒 うつし夜に女と生れて』(ミネルヴァ書房平成24年4月)によれば、

日本女子美術学校には、もう一人、阿佐緒に人生に大きな影響を与えた英語と美術史の教師小原要逸がいた。小原は明治十二(一八七九)年、山口県に生まれ東京帝国大学を卒業した文学士で、明治三十四(一九〇一)年にはすでに結婚をしていた。阿佐緒より十一歳年上の、痩身でカイゼル髭のよく似合うハンサムな教師は、小原無絃の筆名で「明星」に加わり外国の詩集の翻訳書を多く刊行していた。

これに付け加えれば、明治33年7月山口高等学校の大学予科文科英文学科志望を卒業。同期に若月保治。37年7月東京帝国大学文科大学国文学科卒。同期に厨川千江(本名・肇)。
小原訳の「三つのかげ」を引用しよう。

たび人が森の木蔭の
泉をば見入るがごとく、
汝が髪のかげに匂へる
汝が眼(まみ)を見入りて言ひぬ、
『あはれ、そのしづけき蔭に、
たゞひとり立ち去りかねて、
深く掬み、夢に入るとも、
わがよはき心は痛む。』

かねほりが水の底なる
黄金をば見入るがごとく、
汝が眼(まみ)のかげに匂へる
み心を見入りて言ひぬ、
『あはれ、その不朽の獲もの、
無くば、生(よ)を寒う、『天(あめ)』をば
空虚(うつろ)なる夢とすべきも、
藝術(たくみ)をばなど羸ち得んや。』

海士の子が海の底なる
真珠をば見入るがごとく、
み心のかげに匂へる
汝が愛を見入りてわれは
息吹にもまがふばかりの
低き音に囁きつるよ、
『あゝ忠実(まめ)の少女よ、愛(め)でよ、
汝れはそもわれを愛づるや。』

原は明治37年に日本女子美術学校に入学、39年には小原との恋愛問題のため退学。いつからできていたのか不明だが、小原はロセッティの詩を訳しながら、原のことを想っていたのだろう。

D.G.ロセッティ作品集 (岩波文庫)

D.G.ロセッティ作品集 (岩波文庫)