神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

神戸の古書店青甲堂書店の小島清が詠んだ古本短歌

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いつもお世話になってます三密堂書店の100円均一台で小島清『對篁居』(小島清歌集刊行会、昭和55年4月)なる歌集を見つけた。三密堂の均一台に出る歌集・句集は時に変わった(褒め言葉)物が出るので、同書の頴田島一二郎「後記」を見ると、

作品の上から見ても、彼の青春のすべては神戸にあった。
若き頃から国文学に身を置く希望は強く、国学院大学に入学しながら、東京大震災にはばまれて、空しく神戸に戻り、あとは独学で僅かに渇を医したという話にしても、戦中戦後の職の転々も。
 事変下にあきなひのみち狭められ「キング」「日の出」など背負うてかへる
その古本屋開業の店も、昭和十三年の関西大水害に押し流され、最後の大空襲。(略)

神戸で古本屋をやっていた歌人だった。ということで、しっかり確保。「後記」から年譜を作って見よう。

明治38年5月 現東京都中央区湊三丁目生
大正4年 父のイギリス神戸総領事館就職に従い、居留地浪花町九番館へ移る。
大正7年 神港商業に入学。校内誌「宇奈互丘短歌会」に属し、アララギの加納暁を知る。
大正?年 国学院大学入学
大正12年 関東大震災にあい、神戸に戻る。
大正15年 小泉苳三に師事するとともに、ポトナム短歌会に参加
昭和9年10月 歌集『龍墟集』刊行
昭和?年 古本屋開業
昭和13年 古本屋が関西大水害に押し流される。
昭和20年6月5日 大空襲で家屋全焼
昭和22年5月 国崎望久太郎の世話で京都の黒谷善教院に移居
昭和25年 小泉経営の書肆白楊社に勤務
昭和46年6月 歌集『青冥集』刊行
昭和47年3月 京都府綴喜郡八幡町へ転居、「對篁居」と名付く
昭和54年4月 逝去

小泉の『ポトナム』と小島の関係は、『日本近代文学大事典』に出ていた。

「ポトナム」 短歌雑誌。大正一一・四~。小島苳三(藤三)により朝鮮京城において創刊。創刊同人はほかに百瀬千尋、細井魚袋、頴田島一二郎、君島夜詩ら。つづいて阿部静枝、福田栄一、小島清、平野宣紀、岡部文夫、国崎望久太郎、和田周三、森岡貞香らが加わり漸次盛大となった。(略)

神戸の古本屋となると、高橋輝次氏か林哲夫氏が既に調べてるんじゃないかと思ったら、やはり林氏の「daily-sumus」平成21年4月22日「竹村英郎詩集」で言及されていた。それによると、小島の古書店は青甲堂書店といい、現在の神戸市中央区二宮町にあったという。小島の詠んだ古本短歌が面白いので幾つか紹介しておこう。

柱傾くといはれ通しし階上の蔵書いくらかを市に托しぬ
古本屋を営む友の書棚より選りいだす蕉門名家句集よ
婦系図一日分の原稿が山なす雑書より高しと友いふ
初市に本をせりあふはりごころ幾何(いくばく)もなき利とは知りつつ

泉鏡花の『婦系図』は明治40年『やまと新聞』に連載された。小島が古書店をしていた戦前、友人の古書店から一日分の原稿の古書価の高さを聞いて驚いたようだ。泉鏡花記念館のホームページによると、原稿は現存3枚だけで1枚は同館が所蔵しているという。いつか小島の友人だったという古書店の名前を解き明かせるだろうか。

昭和8年東大仏文科卒業生らが作った同人雑誌『港』

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昨年のあちゅーい下鴨納涼古本まつりの竹岡書店3冊500円コーナーで戦前の同人雑誌2冊を発見。『港』創刊号(鈴木健郎、昭和8年6月)と10号(発行所三田書房・事務所港社、昭和11年2月)である。前者は定価30銭、後者は10銭。後者の表紙には「LE PORT」とある。創刊号(56頁)の目次は、

雪消 秋山晴夫
電話 鈴木健
雨 露木皎
船出 林三郎
噴泉 池正路
霧の港 堀光之助
絵遊びと「春の雪」 郡山千冬

林と池のが詩で、他は小説である。創刊の辞や編集後記はないが、同人名として上記のほか、黒住真雄の名がある。同人のうち、秋山は昭和8年3月東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒で中央大学名誉教授。詳しくはWikipedia参照。林、堀、黒住も同年同科卒である。鈴木は6年3月同科卒。佐藤正路という人が8年同科卒だが、池正路と同一人物か。郡山は同年3月美学美術史学科卒。露木は不詳。10号では同人は9年仏蘭西文学科卒業生などを含め20人に増え、発行人は秋山に変わっている。8年同科卒業生には「秘められたフランス時代の岡本太郎」で言及した丸山熊雄もいるが同人には参加していない。貴重な雑誌なのか、「日本の古本屋」ではあきつ書店が2号から10号のうち6冊で34560円付けている。

緑紅叢書の田中緑紅が遺した約70冊の日記

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今年は田中緑紅(1891-1969)の没後50年。緑紅の「京を語る会」が昭和30年代から40年代に発行した緑紅叢書全53冊が解説や遺族の回想を収めた別巻付きで京都の三人社から復刻版を刊行中である。前半が昨年10月、後半が来たる6月発行である。小松和彦・倉石忠彦・菊地暁各先生の推薦、限定80部。元版の全冊揃いは中々入手困難なようで、「日本の古本屋」では45冊で10万8千円が付いている。53冊のうち特に『京の怪談』や『京の七不思議 上下』は持ってる人が多いだろう。三人社と言えば高額にもかかわらず善行堂で売れてる『柳瀬正夢全集』全5巻*1の発行所である。ある日記の刊行も予定されていて、楽しみに待っている。
京都新聞では今月11日に緑紅叢書の復刻と京都学・歴彩館開催の「緑紅の資料に親しむ会」(23日)の紹介があった。更に16日からは「ウは「京都」のウ」のファイル15として「緑紅さんによろしく」の連載が始まった。これで驚いたのは、約70冊の緑紅の日記が遺っていて、部外者に見せたことがないという。第2回の17日には昭和9年元旦に白浜温泉で過ごす緑紅の日記が引用されていた。この年3月に緑紅は医者で孤児院「平安徳義会」の創立者でもある父泰輔を亡くし、翌年には邸宅を壊し、土地の一部を売却し、アパートの賃貸経営に乗り出したという。実はこの父親を亡くして間もない頃の緑紅の葉書が手元にある。シルヴァン書房から300円で入手したものである。印刷された文面は、

(略)昨年五月健康の為吉田山麓へ移りました(略)旧臘より南紀地方へ三ヶ月避寒転地療養に参りましたが老父病気となり日々重く三月八日帰京(略)廿六日忽然と父を亡ひ(略)五月十三日忌明をあけて再び生家の堺町の宅へ戻りました。(略)
処で本宅は広すぎますので若し御知友で医院の出張所でもお捜しの方があれば御話し願ひます(略)
昭和九年五月 京都市堺町三条下ル 郷土趣味社
 田中緑紅

宛先の大江四郎は不詳。多分あちらこちらに葉書を送付したが開院希望の医者は見つからず、翌年アパート経営に乗り出したということだろう。緑紅の人脈から言うと70冊もある日記はさぞや趣味人のオンパレードだと思われるが、三人社には乗りかかった船(?)ということで、一部でもよいので日記の刊行もしてほしいものである。
(参考)緑紅の母親については、「キクオ書店で田中俊次『思ひで』(来蘇館、昭和5年5月)」参照
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*1:4巻まで発行済。近く5巻が出るようだ。

大正14年南天堂で萩原朔太郎と服部之總は出会ったか

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本郷白山にあった南天堂については、稲岡勝監修『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ)の松岡虎王麿の項によると、

大正6年 父・寅男麿が神保町に開いた古書店が本郷白山上の五叉路北角に移り南天堂と改称、新古兼業となった店を相続
大正11年 近くのまき町通中央に3階建てを新築移転、1階新刊書店の2階を喫茶兼レストランとしたところ、アナキストダダイスト詩人で賑わい、出版記念等の会場ともなった。3階は出版部とし、「近代名著文庫」の刊行会を始め、川端康成編集『新思潮』(第六次の二)発行所となった。
大正14年 店舗は取引先の取次店・上田屋書店に明け渡された。

私も、「南天堂!」や「南天堂の経営を引き継いだ上田屋」等で南天堂を紹介したことがある。それで、ユクノキたんから、萩原朔太郎が「ラヂオ漫談」*1大正14年2月の上京後南天堂を訪問したと書いていることを教えてもらったのは、平成23年5月であった。朔太郎は東京に移ってからまもなく本郷の本屋南天堂の隣店の前で初めてラヂオを聴き、その後ラヂオを聴く目的で南天堂に紅茶を飲みに行ったという。今回、松尾章一『歴史家服部之總』中の服部の同年の日記にも南天堂を発見することができた。

(大正十四年)
二月十日 猿之助によく似た[一字あく]君と林氏と三人で南天堂。(略)
二月十七日 (略)南天堂で会食(略)
二月二十六日 九時に起きてピアノを叩き珍しく内村と一緒に出て南天堂で会食。(略)
六月十三日 (略)白山迄帰り南天堂でナマ二杯女給と話して久しぶり女と話したなと感じた悲惨である。
六月二十六日 (略)皆と南天堂二階でだべり(略)

南天堂の女給に言及されているが、寺島珠雄南天堂ー松岡虎王麿の大正・昭和ーー』(皓星社、平成11年9月)中の牧野四子吉の書簡に女給は3人いたとある。朔太郎はラヂオ目当て、服部は食事と女給目当てで南天堂2階に行っていたようだが、2人が出会うことはあっただろうか。
なお、写真の『紙片』創刊準備号*2は『南天堂』への挟み込み、担当編集者森洋介氏の作成である。寺島珠雄事務所「校正補記」と編集部「南天堂捨遺」が載っている。古本で買うときは、挟まっているか確認した上で購入しましょう。

*1:中央公論大正14年12月号

*2:その後、続かなかったらしい。

服部之總は見たーーその時今和次郎の考現学が誕生したーー

昨日紹介した松尾章一『歴史家服部之總』中の服部之總の日記には、まだまだ驚くべき記述が幾つかある。たとえば、次のような記述である。

(大正十四年)
三月七日 (略)今さんとも打合わせて一緒に本処[ママ]へ帰る。セツルメント表玄関のマークを作ってもらったのだ。御礼にらんめで会食。(略)
三月二十七日 正午早大今氏を訪ねる(略)
三月二十九日 (略)夜今さん見えて、八時三十分、早大建築家の関西見学団より一汽車早めに発つ。車中殆ど話し通す。調査所を作る夢みたいな話などに熱したり。
三月三十一日 吉田で今さんと別れ、淡を訪る。(略)
五月九日(土曜日) 二時迄研究室。三時前築地本願寺松村氏から金四十円受取りにゆく。帰途今さん銀座のストーリートサーヴェイ中を発見、婦人公論の嘱によって吉田ケン[ママ]吉氏と二人でやってるのだといふ。五時頃から社の連中も手伝にきて済んで後飛入の僕もいれて牛皿をつゝく、夜は今さんの家でねた。(略)
六月十日。夜セツルメント懇親会。すぐすみ、今さんと十二時頃迄ブラツク。「無機物の群集と人間群集の話」(略)
六月十九日 (略)婦人公論に今氏の調査出援者として我等の名あらず。ふんがいにたえず。
七月四日 (略)銀座の大阪ずし。吉田謙ちゃんとあふ。(略)
七月二十二日 (略)吉祥寺に今氏をたづね、不在で早大へゆく。敷金の算段だが、話すや祝して五十円贈られた。二時半別れて帰宅(略)
七月二十五日 (略)午後セツルメント。今氏と落会ひ、まってゝくれた内村と三人で診療所、京樽でドクター達と乾盃、あと今氏と清僕等で食事し(略)

松尾著によると、服部はこの年3月に東京帝国大学文学部社会学科を卒業後、研究室の副手として大学に残っていた。また、大正13年に創立された東京帝国大学セツルメントの指導者で、セツルメント・ハウスの土地を見つけて早稲田大学教授の今に無報酬で設計させたのは服部だったという。この日記は大正14年における今の動向が分かる貴重な資料である。特に5月9日、後に『婦人公論』7月号に「一九二五年初夏東京銀座街風俗記録」として発表される銀座の街頭観察を目撃するだけでなく、調査の手助けもしていたわけだ。『今和次郎採集講義』(青幻舎、平成23年11月)118頁に調査メンバーに関するメモ紙の写真が載っているが、確かに服部の名が見える。大正14年の段階ではまだ「考現学」と名付けられてはいないようだが、服部は考現学の実質的な誕生に立ち会っていたのだ。

今和次郎 採集講義

今和次郎 採集講義

大正14年湯ヶ島温泉で遊ぶ川端康成と服部之總

今日は川端康成の命日だ。そこで、小谷野敦・深澤晴美編『川端康成詳細年譜』(勉誠出版平成28年8月)にも発行月の関係で記載のない松尾章一『歴史家服部之總ーー日記・書翰・回想で辿る軌跡』(日本経済評論社平成28年9月)中の服部の日記から川端に登場してもらおう。

(大正十四年)
一月一日 (略)川端君の方では文学青年富田なる来客がある。(略)湯ヶ島へきて四日目。
一月二日 (略)賀状も書けず読書もせず 静かな話相手川端康成と並んで日を消す。(略)
一月三日 突然の事に驚喜したのは後藤寿夫[作家・林房雄]の到着である。
一月四日 (略)中河与一夫妻も一緒に到着。(略)
一月五日 (略)川端は中河氏と吉奈へ散歩、僕等は世たへゆく。(略)
一月六日 (略)明日発つ事にする。昨夜川端と話しこんでね不足なので昼寝する。(略)夜は最後といふので川端中島(東大法科)後藤達と六人で、後には二階の四人つれの建築請負師と名のる人々をいれて花を引き白粉をつける。(略)
一月七日 十二時半、乗合で、中島、大岡と三人で、出発、川端朝寝で中河氏と「よっちゃん」が僕の背中におぶさって、見おくってくれた。(略) 

詳細年譜には、湯ヶ島の湯本館に滞在した川端が中河一家と吉奈温泉へ行ったり、林と知り合った事が記載されてはいるが、服部の日記により月日が特定できることになる。川端は大正13年東京帝国大学文学部国文科卒、服部は大正14年同学部社会学科卒。いつ頃から親しかったのだろうか。

川端康成詳細年譜

川端康成詳細年譜

歴史家 服部之總

歴史家 服部之總

内田文庫主任彌吉光長と霊感透視家山本精一郎の『民俗の風景』(朝日書房)

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一昨年文庫櫂で『民俗の風景』2巻1号(朝日書房、昭和10年1月。以下「本誌」という)なる雑誌を発見。表紙に霊感透視家山本精一郎主宰というアヤシゲな表記があるので購入。32頁。昭和9年8月創刊の『古典風俗』を改題したようだ。目次の一部をあげると、

山村に残る古典風景 三田克彦
現代に於ける太古の遺風(二) 山本精一郎随筆集
とはずがたり(二) 松本晩翠
播磨の国の民謡二三 島田清
桃太郎の誕生 福田圭
山本氏の霊感に就いて 吉田晴風
民俗後記

山本の「現代に於ける太古の遺風」は『信仰と民俗』(朝日書房、昭和10年3月)に収録されている。そこでも山本の肩書きは霊感透視家である。なお、松本の「とはずがたり」も収録されているので、松本は山本の別名と思われる(追記:松本幹一(号晩翠)に『とはずがたり』(泰山房、大正6年)があるので、別人のようだ)。
霊感透視家山本の経歴は不詳。霊界廓清同志会編『破邪顕正霊術と霊術家』(二松堂書店、昭和3年6月)には登場しない。しかし、一柳廣孝吉田司雄編著『闇のファンタジー』(青弓社、平成22年8月)によると、「全国精神療法家大番附」(『精神界』3巻11号(精神界社、昭和5年11月)附録)では東前頭筆頭となっているので、霊術界では相当の霊力(?)があったようだ。また、本誌吉田の「山本氏の霊感に就いて」には次のようにある。

大正十年頃から北海道函館の山本氏の名声を知り、毎年旅行の途次必づ門を叩いて居る、山本氏の霊感は到底他の追従を許さざる確かさを持つところから、函館に埋れる人ではない、(略)上京を促したのである。
氏は漸くこれを入れて、昭和三年上京し、居を卜するに至つた。

更に文章の最後に山本の道場の連絡先をあげている。

山本精一郎先生修霊の道場
 東京市赤坂区山北町五丁目二十三

吉田は「コトバンク」によれば琴古流尺八家。秘密兵器「ざっさくプラス」を使うと、山本は『三曲』という雑誌に「音霊と尺八」(昭和4年4月~12月)などを連載しているが、吉田との関係からか。また、山本『正邪霊の存在と其の驚異』(交蘭社、昭和5年2月)の「自序」に「爾来二十余年間の研究に依つて、其れ等驚異的現象は悉く霊の徳[ルビ:はたらき]であるといふ事に帰着したのである」とあり、明治時代から霊の研究をしていたようだ。
さて、もう一つ本誌で驚いたことがある。本誌顧問として、内田文庫主任彌吉光長の名があることである*1。彌吉は『図書館人物事典』(日外アソシエーツ)にも大きく立項されている館界の重要人物で、昭和9年に故内田嘉吉氏記念事業委員会嘱託、その後満洲国の館界で活躍し、戦後は国会図書館整理部長を務めた。そんな人物が霊感透視家主宰の雑誌の顧問をしていたとは。もっとも、本誌の発行所である朝日書房から彌吉は波多野賢一(駿河台図書館長)と共編で『参考文献総覧:研究調査』(昭和9年)を出しているので、その関係で頼まれたか。また、現在なら霊術家の主宰する雑誌の顧問を引き受ける図書館人は皆無だろうが、戦前においては霊術家はそれほどいかがわしい存在とは思われていなかっただろう。
本誌の発行兼編輯人である川崎久敏については、『出版文化人名辞典』4巻(後藤金寿編『全国書籍商総覧』(新聞之新聞社、昭和10年9月))から要約すると、

朝日書房
川崎久敏
住所 麹町区上二番町二
明治30年4月8日 山口県都濃郡徳山町
大正14年上京
昭和4年9月 現地に朝日書房を創立。各種出版物を続々刊行、その出色なるものに和田万吉監修『参考文献総覧』、頭山満『肝つ魂[ママ]』、南條文雄『慰安と修養』、物集高見『[提要]源氏物語絵巻』、塚田忠泰『実地踏査全国渓[ママ]谷景観』、雑誌『民俗の風景』等ありて同書房の名を高からしむ。

霊術家山本精一郎、彌吉光長、川崎久敏の関係については、継続調査をしていきたい。

闇のファンタジー (ナイトメア叢書)

闇のファンタジー (ナイトメア叢書)

*1:他に三谷祥介、帝大写真技師中野真水