神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

早稲田国際学院発行の『学生作文集第1輯』(昭和16年)ー下鴨納涼古本まつりでー


 下鴨納涼古本まつりが終了した。季節柄豪雨や夕立に見舞われることが多い古本まつりだが、今年はまったく降らなかった*1。天気は良かったものの、善行さんみたいに手が震えるような本は買えなかった。しかし、ブログのネタに使える本は拾えたので、紹介しておこう。
 奈良県のおくだ書店が出していた「古~い!教科書 一冊¥300」の箱が、意外にも良かった。「意外」というのは、古い教科書と言うとたいていは戦前の小学校や中学校等の国語読本、国史、修身、習字、図画等の教科書で、まったく買う気がしない物が多いからである。ところが、念の為のぞいてみると教科書以外の物が色々紛れ込んでいた*2。『学生作文集第1輯』(早稲田国際学院、昭和16年3月)は、早稲田大学と関係がありそうなのと後に名をなす人が書いているかもしれないと買ってみた。
 「国際学院」とあると、日本人に英語を中心とする外国語を教える学校を想像してしまう。しかし、ネットで読める吉岡英幸「早稲田国際学院の日本語教育」によると、実質的には早稲田大学付属だが形式的にはアメリカのバプテイスト教会系の奉仕園*3による教育活動の施設として、昭和10年9月に開校された学校であった。外国の学校の卒業者及び日系外国人で早稲田学園に入学しようとする者への準備教育と日本文化に関する知識の授与が目的であった。昭和18年4月に早稲田大学に移管されたが、昭和20年3月に閉校している。
 昭和15年4月の新入生53名の国籍は、アメリカ25、中華民国7、タイ6、白系ロシア人3、ブラジル2、ジャバ2、スイス2、満州国2などであったという。本書の目次で確認してみよう。

 確かに日系二世と思われる名前のほか、中国人やロシア人と思われる名前などが見える。ただし、見覚えのある名前はない。国会デジコレで「早稲田国際学院卒」を検索すると、この作文集に名前のない卒業生が見つかった。そのうちの小坂初代に注目した。『米国日系人百年史:在米日系人発展人士録』(新日米新聞社、昭和36年12月)によれば、父小坂福三郎は、明治14年生まれで明治34年に渡米しクリーニング業で成功するも、戦時中の一時期ミゾラ抑留所で過ごした。長女初代はワシントン大学卒、早稲田国際学院卒で、戦争中満州国内で行方不明。どういう理由で来日し、満州へ渡ったのかは不明である。生きていれば戦後の日本で随分活躍する場があったのではないだろうか。
 なお、本書は国会図書館サーチ、CiNii Books、早稲田大学図書館統合検索WINE、東書文庫OPACで所蔵は確認できない。ただし、吉岡論文によると、『早稲田国際学院報』24号(昭和17年)に記載された教科書*429部のうち現存が確認できる8部に本書が含まれているので、どこかに残っているようだ。

*1:厳密には、8月15日の午後会場でパラパラと数滴の雨に出会った。

*2:明治40年代の『小学生日誌』(博文館)が初日から出ていて迷って置いておいたら、3日目には消えていた。買っておけば良かった…

*3:奉仕園については、「早稲田奉仕園について|早稲田奉仕園」参照

*4:『学生作文集第1輯』は、早稲田国際学院の予科・本科1年・本科2年の生徒87人による修学旅行、上野の技術博覧会(昭和15年3月~4月に開催された紀元2600年記念輝く技術博覧会)、故郷の思い出、授業の様子などの作文である。教科書には見えないが、後進の生徒には教科書として使われたのかもしれない。