関西学院大学博物館で、「平常展 学生たちの大学昇格運動 ─関西学院新聞からみる学院史─ 特集陳列 カラフル! 技でみる日本の蔵書票| 関西学院大学博物館」を開催中(9月14日まで)。大正11年創刊の『関西学院新聞』を通してみた大学創立(昭和7年)を扱った展示のようだ。そう言えば、同紙の前に存在した『関西学報』の改称前の『関西文壇』第1号(関西学院、明治40年4月)を持っている。大阪古書会館で矢野書房出品だった気がする。恥ずかしながら、「高橋輝次様、『関西文学』を買ったのは実は私です。 - 神保町系オタオタ日記」で言及した『関西文学』*1と間違えて買ったと思う。関西学院大学図書館が1号~3号、6号~7号(明治42年7月)を所蔵しているぐらいか。
目次を挙げておく。「雑誌発刊に就て」(富洋生)には、「院友会の機関雑誌『関西文壇』」とあり、タイトルの「関西文壇」は関西地方における文壇の意味ではなく、関西学院の健児等がその手腕を試みるべき文壇との意味だともある。『関西学院百年史通史編1』(関西学院、平成8年5月)を見ると、院友会は現職員・旧職員・在学生により組織され、雑誌部、陸上運動部、海上運動部に分かれ、雑誌部が『関西学報』の編集・発行を担当した。同誌は、『関西文壇』(1~7号)を改称したものであった。
巻頭に「発刊の辞」を書いた蘆田教授は、蘆田慶治である。ネットで読める『関西学院事典(増補改訂版)』によると、慶應3年生まれ、明治30年関西学院神学部卒で、明治40年当時は神学部で組織神学、哲学などを教えていた。明治42年に同志社神学校へ転じることになる。蘆田は「我が私立関西学院」で面白いことを書いているので、引用しておこう。
(略)所謂『空想に煩悶する者』の多く青年学生間に出づるは、蓋し教育と宗教(前に陳べたる如き純粋の意味に於る宗教)とを全然分離せんとしたる教育法の余弊なるにあらざるか。(略)近年東京帝国大学ー其哲学倫理思想に於ては著るしくコムト流積極論的傾向を有する帝国大学の一講座より実験科学を超越したる『神秘』を唱道する者の起りたるが如き、或は頃日、加藤、井上等の諸博士が孔子祭典会なる者を組織し汎く会員を募集せんとするが如き、即ち人心の要求を示し、時代思想の傾向を示すものにして(略)
「実験科学を超越したる『神秘』を唱道する者」とは、福来友吉ではないとして誰だろうか。
『関西文壇』の「通信」欄にはOBからの近況報告が載っている。筆頭は、久留島武彦である。出社すると母校から近況報告を求める来信が来ていて、取りあえず序論だけ送ることにしたという。2号以降にも久留島の報告が載っているのだろうか。
勢家肇『久留島武彦・年譜:童話の先覚者日本のアンデルセン』(勢家肇・わらべの館久留島記念室、昭和61年1月)によると、明治23年大分中学校3学年の時に英語教師ウェンライトが関西学院創立に際して転勤。誘われた久留島は、関西学院普通学部へ転校した。明治27年*2推薦卒業。明治37年から東京の中央新聞社に勤め、子供向け週刊新聞『ホーム』(明治39年創刊)を編集していた。明治39年からは『少年世界』(博文館)の編集も行っていた。勢家の年譜によると、久留島は大正4年に奈良市あやめ池在住*3の俳人橋本多佳子を毎日新聞社西野奈良支局長、九十九豊勝(黄人)と共に訪問している。また、昭和59年勢家が九十九を訪問した際に橋本邸訪問時には巖谷小波も同行したと聞き取っている。