神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正9年呉昌碩作品展で自身の作品を見つけた富岡鉄斎


 今年が呉昌碩(ごしょうせき)の生誕180年ということで、昨年末から今年4月にかけて朝倉彫塑館、書道博物館東京国立博物館東洋館、兵庫県立美術館で「生誕180年記念呉昌碩の世界展」が開催された。このうち兵庫県立美術館を観覧した。書・画・篆刻の特に篆刻を故蔵書印さんが好きそうだなと思いながら観たものである。
 さて、王家誠著・村上幸造訳『呉昌碩伝』(二玄社、平成2年10月)で日本における呉の受容を見てみよう。338・339頁に次のようにある。

 王一亭や河井筌廬(仙郎)や長尾雨山(甲)などの推薦と紹介によって、日本人は呉昌碩の篆刻を懸命になって求めたばかりか、文求堂、至敬堂、長崎双樹園、大阪高島屋なども、あらそって彼の印集や書画集を出版したり、日本で書画展を開いたりした。このため絵画の面でも、呉昌碩はあらたな黄金時代に入ったのである。

 ここに挙がっている画集のうち、文求堂書店の『呉昌碩画譜』は大正9年5月、双樹園(長崎に所在)の『呉昌碩先生画帖』は同年12月発行である。更に、「大正10年新京極に誕生した京都美術館という名の画廊 - 神保町系オタオタ日記」で紹介した『美術館誌』(京都美術館、大正10年3月)に呉の作品展に関する記述があったことを思いだした。旧字を新字に改めて、ルビを省略して引用する。

  鉄斉[ママ]翁の七十年前
 旧臘京都市の公会堂で、現代支那に於ける、隠れたる大家呉昌碩の作品展覧か[ママ]あつた、是れは曽て支那上海に支店を有する神戸の船成金某氏の催して[ママ]あつて、京都の支那通を以て目せらるゝ、長尾雨山、山本竟山諸氏の外、呉昌碩に服酔せる幾多諸氏の肝煎て[ママ]あつて前後二日間の展観て[ママ]あつた。鉄斎翁には高齢の事とて平常あまり外出はせぬ方であるか[ママ]、何か呉昌碩の筆致又人格に於て、同感の事とて、家人に擁せられて参館した、席上主催者其他の案内で順次に観覧し、長尾氏等との画談中々に尽きぬ、談笑数刻にして辞去した、其際展観室の入口に立てられた小屏風にフト目をつけ、熟視すること稍久しく、低徊去るに忍ひ[ママ]とまでは行かんか、黙想稍久しく何か心当りて[ママ]もある様であつた、此際傍らにありし某氏も又急に記憶を呼起したるものゝ如く、突然翁に此屏風の短冊に記憶か[ママ]あるか何かを聞くと、翁は無言で稍暫し考へた後ち、之れは七十年前た[ママ]と答へ呵々と大笑して去つた。此の短冊こそ翁が少年時代に和歌の手ほどきを受けた、蓮月尼の筆になつた短冊の混せ張りて、短冊としては、珍しくも、画讃のものて[ママ]あつて、之の俳画は当時翁の揮毫する処で、蓮月尼か[ママ]讃を入れたものであることか[ママ]諒解せられた、翁か[ママ]七十年前の揮毫に、蓮月尼の讃と云ふ極めて珍らしき屏風を偶然発見したとて某氏の喜ひ[ママ]は一方でなかつたそうて[ママ]、喜ひ[ママ]は左もありそうなことである。

 大正10年の旧臘である9年12月の70年前は、嘉永3(1850)年、今年が没後100年に当たる富岡鉄斎は数え15歳である。鉄斎と大田垣蓮月の出会いは、鉄斎の15歳の時と20歳の時とする文献がある。大正9年当時数え85歳だった鉄斎の回想が正確であれば、蓮月に出会ってすぐの最初期の作品ということになる。呉の作品展になぜ鉄斎・蓮月の作品が出ているのかよく分からないが、「神戸の船成金某氏」(誰だろう)が呉昌碩の作品と共に屏風に張り交ぜていたのだろうか。なお、ネットで読める「大妻女子大学博物館特別展「呉昌碩と日本人士 ―中国最後の文人と交流した書画文墨趣味ネットワークの人々―」 - 全国遺跡報告総覧」の鉄斎《与山田聖華房尺牘》の解説(青木俊郎)によれば、大正6年鉄斎は息子の桃華(謙蔵の号)に上海の呉を訪問させ、印2種の制作を依頼。この時雨山は呉に朱文印制作を依頼し、印を鉄斎に贈った。また12年鉄斎は呉に自邸に掛ける扁額の揮毫を依頼したとある。これらの印や扁額《曼陀羅窟書》は、京都国立近代美術館「没後100年富岡鉄斎展」(令和6年4月2日~5月26日)で展示されていた。