神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

大正2年信仰物理学者日下部四郎太が創立した東北帝国大学理科大学の散歩会と田辺元ーー『自修会々報』創刊号からーー


 先日東京古書会館の和洋会2日目では、1冊だけ購入。『自修会々報』創刊号(東北帝国大学理科大学自修会、大正4年4月*1)である。東北帝国大学理科大学の校友会自修会の会誌で、98頁。きたむら書店の出品で、1,000円だった。
 古本市2日目の昼でも残っていたのは、パッと見、色気の無い無名の雑誌だからか。しかし、私は目次を見て日下部四郎太「南洋出張所感」が載っているのと、「国会図書館サーチ」で『自修会々報』はまったくヒットしないので購入。2号も出ていたが、創刊号のみとした。その後調べると、宮城県立図書館が『自修会報』13号(昭和2年*2)を持っていた。また、同サーチの対象外だが、東北大学史料館が『自修会々報』1号~8号(大正12年1月)、『自修会報』9号(大正13年1月)~28号(昭和18年7月)、2輯1号(昭和23年12月)~4号(昭和27年1月)を所蔵していた。当初の『自修会々報』から『自修会報』に改題されたようだ。「日本の古本屋」では、泰成堂書店が会報19冊と会員名簿3冊で36,750円を付けているほかは、売り切れている。需要はあるようだ。
 日下部は、田中聡『怪物科学者の時代』(晶文社、平成10年3月)で明石博高、井上円了福来友吉石塚左玄桜沢如一南方熊楠らと共に紹介された地球物理学者である。同書から引用すると、

 その足跡は、全国各地はもちろん、欧米、近東、アフリカ、東南アジア、北極圏にまでいたるものだった。
 もちろん財宝探しをしていたわけではない。専門である地球物理の研究のためであり、そしてもう一つには、信仰や迷信を調査するためであった。さまざまな信仰や迷信の基盤となっている自然現象を科学的に解明することが、「信仰物理学」だったのである。日下部は、あらゆる迷信をうち破る旅を続けた物理学者だった。

 われらのヨコジュンも『明治時代は謎だらけ』(平凡社、平成14年2月)に「信仰仏利SF天文学者」を書いている。随分SF的志向を持った学者だったようだ。
 日下部の「南洋出張所感」は、大正3年12月に命じられたマーシャル、カロリン、マリアナ群島への出張の報告である。これは、「帝国日本の地質屋流転ーー地質学者永井浩三はパラオ熱帯生物研究所を訪問したかーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した日本の第一次世界大戦への参戦によりドイツ領だったミクロネシアを海軍が占領し、文部省から派遣された学術調査である。坂野徹『〈島〉の科学者:パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』(勁草書房、令和元年6月)でも、この所感は参考文献として使われていた。

 本誌の目次を挙げておく。実は、日下部の寄稿よりも「散歩会の記事」の方が注目すべきものであった。この記事は、散歩会第1回(大正2年10月12日)*3から14回(大正3年4月26日)までの記録で、記録者はその都度異なっている。「散歩会」は、津金仙太郎『信仰物理学者日下部四郎太』(中央書院、昭和48年3月)によれば、日下部が「日曜日には野山をかっ歩しオゾンをたらふく吸い、血液を浄め、肉体をきたえようではありませんか」と学生に呼びかけて結成されたようだ。第1回分を「散歩会の記事」から引用しよう。

 第一回 七北田村の山の寺。大正二年十月十二日午前九時県庁出発、中山不動、荒巻温泉経て午後一時過ぎ山の寺着、帰途大門前にて力餅を食ふ、湯茶を飲む事夥し、夕刻仙台市に帰る[、]一同疲労の体[、]会費四銭[、]来会者、日下部先生、田辺先生、柳原吉次、小倉淑威、真嶋正市、小野平八郎、蒔田宗次、武田泰助、山久瀬裔嗣、北村友圭、黒須康之介、黒沢淳造、小嶋鉄蔵の十三名 (小嶋記)

 「田辺先生」は、講師の田辺元である。後に京都帝国大学文学部に移り、哲学の道を散歩しながら思索することになる田辺だが、散歩会では賑やかな散歩をしたことだろう。もっとも、1回で懲りたのか、その後の参加者名が記録された分には田辺の名前はない。

*1:表紙に「大正四年三月二十三日発行」とあるが、奥付に「大正四年四月二十一日印刷/大正四年四月二十三日発行」とあるので、奥付の方によった。

*2:東北大学史料館のOPACでは、昭和3年2月

*3:中島俊郎「六甲山のウォーキングーー神戸徒歩会の活動を主軸にーー」『甲南大学紀要文学編』166号、平成28年3月によれば、明治末期から大正中期にかけて、神戸には多くの徒歩会が組織化されつつあり、同論文で主な分析対象になった「神戸徒歩会」は明治43年11月に創立された「神戸草鞋会」が翌年改称されたものだという。全国的にウォーキング運動が盛んになっていたようだ。