神保町系オタオタ日記

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昭和14年南洋パラオに出現した帝国日本の書籍館ーー畑井新喜司パラオ熱帯生物研究所長は大東亜書籍館の夢を見るかーー

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 坂野徹『〈島〉の科学者:パラオ熱帯生物研究所と帝国日本の南洋研究』(勁草書房、令和元年6月)に、「書籍館」が出てくる。パラオ研の所長畑井新喜司が昭和13年東北帝国大学を退官したことを記念に、翌年12月研究所に図書庫が作られた。畑井はそれを「書籍館」と命名したという。明治期にLibraryの訳として当初「書籍館」が使われたが、その後「図書館」に取って代られたことは知っていたので、畑井は昭和になっても古い用語を使ってるなと思っていた。そう言えば、『文献継承』に鈴木宏宗氏の論文が載っていたなと、34号の「明治10年代「図書館」は「書籍館」に何故取って代ったかーー「図書」の語誌に見る意味変化と東京図書館における「館種」概念の芽生えーー」を見ると。

 明治初めから10年代半ばまでに成立した府県書書[ママ]籍館は、宮城書籍館の1館を除いて、明治20年前後に廃止が相次いだ。(略)現在に続く府県立図書館は、宮城県を除き府県書籍館とは継続関係になく、切れた形で明治30年代に再設置されたものである。

 この宮城書籍館明治14年7月に宮城師範学校内に設置され、一般県民の利用に供された。40年4月に宮城県立図書館に改称されるまで、「書籍館」であった*1
 一方、畑井の明治30年代までの経歴は、蝦名賢造『畑井新喜司の生涯:日本近代生物学のパイオニア』(西田書店、平成7年9月)によると、

明治9年3月 現在の青森県平内町生
明治23年7月 青森県小湊小学校高等科卒業
明治23年9月 東奥義塾入学
明治25年9月 東北学院本科3年に転入(編入)
明治27年6月 東北学院本科卒業
明治31年3月 東北学院理科専修部卒業
同年4月 第一高等学校教授五島清太郎に師事
明治32年9月 シカゴ大学入学
明治34年8月 シカゴ大学卒業

 畑井は数え17歳から23歳まで東北学院や宮城書籍館のある仙台にいたのである。おそらくパラオ熱帯生物研究所の図書庫に「書籍館」と命名したのは、若き日に通った宮城書籍館にちなんだものだったのだろう。蝦名著によると、「書籍館」の書架には畑井の膨大な洋書が納められ、文献に飢えていた研究員にはまさに旱天に慈雨の観があったという。しかし、開戦後パラオ研の設備一切がマカッサル研究所に寄付された。戦況の悪化により蔵書はマカッサルから農村に疎開されたが、その後の行方が不明だという。晩年まで蔵書の行方を気にしていたという畑井は、南洋に設立した書籍館を夢で見ることはあっただろうか。
参考:「帝国日本の地質屋流転ーー地質学者永井浩三はパラオ熱帯生物研究所を訪問したかーー - 神保町系オタオタ日記

*1:『近代日本図書館の歩み 地方篇』(日本図書館協会、平成4年3月)による。