『文藝春秋』8月号に後藤正治「古書店は死なず」が載っている。どこの古書店の話かというと、大津市比叡平に移転した書砦・梁山泊京都店である。「はて、はるばる比叡の山道を分け入る客ありやと思うのだが、『お客は自然とやって来るものです』と悠然たる構えなのである」とある。さすが島元さんである。今回は、移転前の梁山泊で買った本の話をしよう。
第三高等学校教授でキリスト者だった栗原基について、「京都で単純生活社を創設したキリスト者瀧浦文彌の「丹田十字架」ーー『腹を錬る:夜船閑話通解と根本的治病法信仰鍛錬法』と『平田式心療法』からーー - 神保町系オタオタ日記」や「新井奥邃の英文書刊行に協力した元第三高等学校教授栗原基と進々堂の女主人続木ハナ - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。その後も栗原が気になっていたので、梁山泊京都店で『栗原基先生記念追悼集』(昭森社、昭和55年5月)を購入。年譜を見たら驚いた。
大正四年
七・三、南洋諸島へ出張仰せつけらる。(内閣辞令)第一次大戦後、日本の委任統治となった南洋諸島へ学生を引率して初めて旅行。一高生、八高生も同行。この引率学生の中に、後年の山本宣治がいた。基先生に私淑し凶弾に斃るるまで、著書は必ず献呈していた。(略)八高引率教官は後年のハスの権威大賀一郎博士で、この旅行以降、基先生との交情は死に至る迄変らなかった。南洋諸島では、孤島に奮闘するミス・ホッピンというアメリカ婦人伝道師と出あう。後年任を終えたミス・ホッピンは母国への帰路、京都に基先生を訪れ、変らない信仰と友情を確かめあっておられる。
山宣が三高時代に日本による新占領地となった南洋諸島へ修学旅行に行ったことは、「南洋新占領地へ修学旅行に行く山本宣治から三高同級生山田種三郎宛絵葉書ーー坂野徹『〈島〉の科学者』(勁草書房)への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。この時の引率者が、栗原だったのだ。山宣は、山田種三郎と共に三高第2部乙類*1の2年生だった。
栗原は、『開拓者』(日本基督教青年会)の大正4年11月号から5年1月号まで「南洋田舎巡回(航)記」を連載していた。その中で、トラック島の夏島で森小弁に、ジャポール島で米国の婦人宣教師ホッピンに出会ったことを記録している。森は、明治25年からトラック島に滞在する貿易家で、冒険ダン吉のモデルとされる。小松和彦先生が篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』(柏書房、平成13年5月)に「南洋に渡った壮士・森小弁ーー「南洋群島」以前の日本・ミクロネシア交流史の一断面」を書いていたりする。小松先生はトラック島で初めての調査を行うに際して、高山純氏からトラック島の経済界に君臨する森の息子や孫を紹介してもらったことがあるという。
ホッピン女史は、栗原によると、オベリン大学を出て、南洋に渡来してから25年という。定住地はクサイ島だが、ギルバート島に行って帰る途中に今度の戦乱になったので滞留していた。ホッピンがいつ帰国したかは、不明。矢内原忠雄の「南洋群島旅行日記」(昭和8年)にヤルート島に3、40年も滞在していた米国婦人宣教師Hoppingの養女となって米国で教育された女性が出てくるので、その前だろうか。大正4年のナンバースクールの生徒達による南洋修学旅行は、もっと調べたら面白そうである。
追記:ネットで読める小野博司「海軍占領期南洋群島の法概論」の注55にアメリカン・ボード所属の宣教師ジェシー・ホッピンが出てくる。