神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

創元社の矢部文治社長と関西学院大学名誉教授武藤誠

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トム・リバーフィールド編、書物蔵監修・解説『昭和前期蒐書家リスト 趣味人・在野研究者・学者4500人』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)。まだ持ってない人は、「日本の古本屋」に金沢文圃閣が出品しているから買っておこうね。国会図書館のほか、CiNiiで4館の所蔵が確認できる。さて、今回はリストに蒐集分野が歴史として登場する武藤誠を取りあげよう。
武藤の名前は、河上肇の日記に登場していて、記憶に残っていた。

(昭和十七年)
三月九日(月)(略)夕刻、寿岳君、武藤誠氏(関西学院大学予科教授兼同大学図書館司書、兵庫県武庫郡甲東村)同道にて来訪。アダムスミス国富論初版本を、同大学へ寄附の名義にして、謝礼として七百円を受く。(略)

「寿岳君」は寿岳文章で、現在関西学院大学図書館の「アダム・スミス著作文庫」に所蔵される河上の署名入りの『国富論』初版本の「寄附」に寿岳と武藤が関係したことがわかる。武藤の経歴は、Wikipediaに立項されているが、『誠の人 武藤誠先生追悼録』(黒川古文化研究所、平成8年4月)の略歴から戦前分を要約しておこう。

明治40年8月 東京都において父健、母ユキの二男として生まれる。
昭和2年4月 京都帝国大学文学部史学科に入学
昭和3年4月 史学科第二学年度において国史学専攻に属し、三浦周行、西田直二郞両教授の指導を受ける。
昭和5年3月 京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業
同年4月 京都帝国大学大学院に入学し、三浦、西田両教授の指導を受ける。兵庫県史蹟名勝天然記念物調査事務を嘱託される。
昭和7年4月 開設された関西学院大学予科教授となる。
同年10月 魚澄惣五郎夫妻の媒酌で、田中芳と結婚
昭和14年4月 関西学院大学図書館司書を兼務
昭和15年3月 京都帝国大学大学院を退学
昭和18年3月 関西学院大学図書館司書兼務を辞任
昭和19年4月 戦時下における教育体制の変革により、関西学院大学予科教授を免除ぜられ、開設された関西学院専門学校政経科教授となる。

これに補足すれば、昭和5年史学科入学時の同期に柴田実、武居権内(なぜか卒業は昭和8年)、徳丸福蔵、鍋島直康がいた。また、史学科選科に「藪田嘉一郎の古書店文林堂書店が参加した書好会の『書好』ーー『書物関係リトルマガジン集ーー中京・京阪神古本屋編ーー』(金沢文圃閣)で復刻ーー - 神保町系オタオタ日記」で言及した藪田嘉一郎(大正14年入学)がいた。戦後は、関学で学生部長、総務部長を務め、学生運動の対応で苦労したようだ。昭和51年3月定年退職後、財団法人黒川古文化研究所長に就任し、平成7年4月没。京大の大学院に10年もいて、在学中に関学予科教授に就任しているのは珍しい経歴ではないだろうか。
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『誠の人』の目次の一部を挙げておく。創元社社長矢部文治の「寡黙と温顔」が面白かった。矢部が武藤と最後に対面したのは、神戸YMCAで開催された『近代日本と神戸教会 Kobe Church since 1874』(創元社、平成4年6月)の出版記念会だったという。編集委員長の武藤が同書の企画を創元社に勧めた。理由は、同社の前身が神戸で、名が示すようにキリスト主義の会社で、矢部の祖父*1も神戸教会に関係していたことを武藤が知っていたからであった。また、矢部が創元社に入る前の新元社時代にも魚澄編『日本史通論』シリーズの基本プランや魚澄没後の編者として世話になっている。なお、社員の丸茂幸(女性)が入社後に武藤の孫だと判ったともある。創元社については、同社編集者だった高橋輝次氏の『ぼくの創元社覚え書』(亀鳴屋、平成25年10月)があるが、72頁で矢部の逝去を平成7年4月としているのは、武藤と混同しているのかもしれない。『出版文化人物事典』(日外アソシエーツ、平成25年6月)によれば、平成11年3月没である。

*1:『出版文化人物事典』によれば、創元社創業者の矢部外次郎。慶応元年生まれ、大正14年創元社を設立