神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

上野の図書館は今日も満員だった(´・ω・`)

閉鎖中のブログ「書物蔵」2016年11月23日のエントリーは「帝国図書館が満員になり始めたのは、1907年前後から」。そこでは、『書物往来』3年2号、大正15年2月掲載の「帝国図書館問題」(無署名)が引用されている。

帝国図書館の満員続きは昨今始まつた事ではない[。]遠く大正の初年若くは明治四十年前後からの現象であつたと記憶してゐる。特に震災後は一層酷い状態であるらしい。

明治39年の日記中に上野の帝国図書館に行ったが満員だったという記述があるので紹介しておこう。
山崎國紀編『森鴎外・母の日記』(三一書房、昭和60年11月)では、

(明治三十九年四月)
四日 ひる頃、篤次郎出かけたる序故、上野の図書館に行<く>と申<し>て寄る。一緒<処>にひるめしを済し、自身も潤三郎と向島の墓参りに行<く>。上の[ママ]迄連立(遠)<ち>しに図書館満員にて入<る>事出来ず。それ故、篤次郎も向島に行<く>。(略)
(注)<>は編者による補記、()は編者により語句修正がある場合の原文

既に紹介した*1ものだが、『伊良子清白全集』2巻(岩波書店、平成15年6月)には、

(明治三十九年)
一月十二日 金曜 帰途博文館の図書館にいたり家事衛生に関する書籍をよむ 上野にいたりたれども満員にて入ること能はざりき

「上野」は上野にあった帝国図書館と見てよいだろう。ただし、現在国際子ども図書館になっている新館はこの年の3月開館なので、旧館ということになる。
大正期では、「柴田宵曲翁日録抄」がある。『日本古書通信』昭和56年10月号から57年3月号までに掲載された分だけ見るが、

(大正十年)
七月十七日 晴
上野を廻りて帰るに、図書館満員と見えたり。(略)
十月十七日 晴
(略)図書館に赴く。特別満員なれば札とりおきて上野歩く。
十一時すぎ漸く館に入れり。(略)
(大正十一年)
一月十六日 晴
図書館へ行きしが満員なればやむ。(略)
二月十四日 晴
図書館に寄らむとて出でしが、あまりに人待ちゐたればやむ。(略)
三月十二日 晴
日曜なれど例会なれば行く。(略)五時すぎかへる。図書館へ行きしが七時を少し過ぎて満員なり。昨日は八時頃まで満員なりしと云に、驚き去る。(略)
六月二十八日 雨 曇
行くさ図書館による。やゝこみ居る。(略)
七月五日 曇
行くさ図書館に寄る。特別満員にて入れず。尋常を買ひて入る。(略)
七月二十三日 晴 (略)
夕飯後図書館に行く。回数券日附印の不明なるを和綴の帳面しらべてよろしと云。特別回数券買ふもの存外少なきに似たり。(略)
十二月二日 晴
行くさ図書館に来るに特別満員なり。尋常に入る。本受取りてのち別室に行きしも一の空席を見出す能はず。二階にもどりて窓によりてよむ。(略)
(大正十二年)
一月二十一日 晴 (略)
四時過図書館に赴く。特別満員なれば、本郷を一廻りし来りて入る。(略)
六月十七日 雨
四時近く出でゝ図書館に行く。入口に黒板出で居ればこの頃満員になる時ありと見えたり。(略)
七月二日 曇後晴
二時頃より図書館に赴く。満員にて少しく待たされたり。(略)
七月十二日 晴 曇 (略)
一時頃より図書館に赴く。思ひしに違ひて満員にもあらず。(略)

柴田はこの前後*2頻繁に帝国図書館と思われる「図書館」に行っているが、上記以外は満員ではない。大正12年9月の震災以降「酷い状態」になったのか確認できないのが残念である。ただし、柴田は特別求覧券を使用していたので、尋常求覧券を使う一般人にとっての満員状況を見るのには適さないかもしれない。せっかく割高の特別求覧券を持っていても特別閲覧室が満員でわざわざ尋常求覧券を買って入館するところは非常に面白い。帝国図書館規則を読んでいるだけでは、想像できない事態だね。
このほかグーグルブックスで「上野の図書館 満員」で検索すると幾つか見つかる。毎年の満員になった日数の記録が残っていれば一番良いがそれは期待できないので、日記などで拾っていくのも一つの手段かもしれない。
追記:『近代日本図書館の歩み』本篇(日本図書館協会、平成5年12月)によると、明治39年度の『帝国図書館年報』に「本年度ノ終ニ於テハ閲覧人非常ニ増加シ入館ヲ得ズ空ク帰途ニ就ク者多クシテ其歎声絶エザルヲ以テ従来事務所ニ宛テタル木造仮建ノ室ヲ臨時尋常閲覧室ニ充用シ館外ニ溢ルル閲覧者ノ幾分ヲ収容シ稍ヤ歎声ヲ減スルヲ得タリ」とある。

*1:伊良子清白が羊頭苦肉と酷評した大阪府立中之島図書館

*2:ただし、大正12年8月9日以降昭和3年10月28日までの日記は残っていない。