神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

全財産を投げ打って『欽定四庫全書総目』を買った森鴎外

小島威彦の自伝『百年目にあけた玉手箱』に、徳田秋聲谷崎潤一郎が出てくることは「上林暁と小島威彦が目撃した山田順子」と「大文豪と小島威彦・原智恵子」で紹介したところである。90歳代の小島の回想なので、時系列の混乱など必ずしも信用しがたい記述があるが、一定の事実関係は裏付けられる場合が多い。
さて第1巻(創樹社、平成7年1月)には森鴎外が出てくる。

(略)林野局の技師、金原善知夫妻を連想した。彼は金原明善翁の孫だと聞いている。(略)彼の許に嫁していった直子は(略)僕よりちょうど十歳も年長だったが、灘の家の近くに隠退してきた陸軍退役の依田中将の次女で、僕はまだ小学六年の正月だったが、彼女たちの百人一首の相手をつとめさせられてきた。(略)退役後は閑院宮別当をしていたのでその息子の述少佐は宮の御落胤を女房にしていた(略)そして僕が中学の頃、鴎外を読み初めた頃*1、その父親は小倉連隊長だったが、その軍医長森林太郎との親交のうちに、ある日林太郎が四庫全書の総目提要二百巻を、全財産を投げ売[ママ]って手に入れた祝宴だといって二人で飲み明かした話を聞いて、僕はその震撼すべき林太郎の魂とともに依田一家に一層ひかれていった。

鴎外から直接聞いたのではなく、鴎外と祝宴を挙げた依田広太郎の娘から中学の頃(小島の海城中学校時代は大正5年から10年まで)聞いた話が書かれているようだ。金原善知は、『昭和人名辞典』1巻東京篇によると、明治20年静岡県の明徳の三男として生まれ、大正3年東北大林学科卒業後帝室林野管理局技手となり、帝室林野局技師、東京営林局技師等になっている。また、妻直は明治26年生で、京都府の依田述の妹とある。『大正人名辞典』上巻には、金原明徳は明善の長男とある。これらにより、直が10歳年長ということ(小島は明治36年生)も含めて、小島の言う金原や妻の経歴は正しいことが確認できる。
次に鴎外と依田の関係である。鴎外は明治32年2月から35年3月まで小倉の第12師団軍医部長、依田は33年10月から36年12月まで小倉歩兵第47連隊長であり、小倉での在籍期間は重なる。また、東京朝日新聞大正5年5月22日朝刊に依田の訃報が出ていて、4年7月に予備役となった後兵庫県武庫郡西灘村に住んでいたが20日逝去とあり、灘に退隠してきたという小島の記述が確認できる。
二人が親しい関係であったかは、鴎外の日記を見てみよう。800頁を超える『鴎外全集』35巻(岩波書店、昭和50年1月)が日記篇だが、全部読むのは大変である。そこで秘密(?)兵器、青田寿美先生(当時神戸女子大学専任講師)の労作「『鴎外全集』第三十五巻日記索引(人名篇)」*2で調べると依田広太郎は単に「依田」とあるものも含めて6回出てくることがわかる。『小倉日記』には3回登場し、明治33年11月6日依田が馬から落ちて左胸を打撲したので鴎外が訪問したり、同月12日にも見舞いに行っている。また、小倉から異動した後の44年と45年に依田が訪ねて来たり、依田が大正5年5月に亡くなる直前の2月依田に見舞いの手紙を送っている。これで鴎外と依田がある程度親しかったことはわかったが、二人で『四庫全書総目提要』を入手した祝宴が開かれたとは確認できなかった。なお、青田先生の御教示によると日記には「四庫全書」という記述はないそうである*3*4
そもそも鴎外は『四庫全書総目提要』を持っていたのかという問題がある。これについては、twitterで「百版道」先生に御教示をいただき、東京大学総合図書館の鴎外文庫に『欽定四庫全書総目』200巻があることが判明した。『四庫全書総目提要』と『欽定四庫全書総目』は同じ物のようだ。
では、鴎外はどこから入手したか。全集36巻所収の小倉時代の書簡を見ると、明治32年10月14日付け森峰子宛書簡に「近頃手がゝかり出来て大分古本の珍本が手に入申候但し小づかひが皆本代になつて少々閉口仕候」とある。全財産を投げ打ってではないが、小遣いが皆本代になるとあって、どういう「手がかり」だったのか気になるところである。ただし、同月22日付け峰子宛書簡には「潤三郎よりいかなる古本を買ひしかと問来候へども好きものは少く候別紙*5に大略認め申候」とあって、仮に『欽定四庫全書総目』を入手したのは「手がかり」からだとしても、この時点ではまだ入手していないようだ(依田もまだ小倉に赴任していない)。小倉時代の日記に出てくる書店としては、
明治32年7月7日・・・「江藤正澄を訪ふ。好古家にして書肆を業とす」(博多)
明治32年9月28日・・・「帰途二丁目なる書肆の主人長崎次郎を訪ふ」(熊本)
がある。江藤は、斎藤忠『郷土の好古家・考古学者たち 西日本編』(雄山閣出版、平成12年12月)によると、

江藤正澄(一八三六〜一九一一・天保七年〜明治四四年)は、天保七年一〇月筑前国秋月藩に生まれた。幼くして学問を好み国学に通じた。明治三年(一八七〇)神祇官に出仕。その後大宰府神社の神官となり、丹生川上神社宮司をへて、同八年奈良県神道教導職取締となった。同十年退官し、福岡市に住んだ。

首藤卓茂「福岡古本屋濫觴江藤正澄(藤屋)」『日本古書通信平成23年10月号では、江藤は明治10年福岡で古本屋を始め、これが福岡で最初の古本屋とされていることや、広瀬玄ちょう[金篇に長]による私立福岡図書館の設立や経営に携わったことが書かれている。より詳しくは田中和隆氏が『福岡古書組合七十五年史』に書いているとのことだが、未見。また、筑紫豊「江藤正澄自筆稿本『遺憾録』について」『図書館学』3号、昭和31年2月によれば、江藤の遺子広三郎氏から『江藤家蔵物品目録』(明治21年)等が九州大学附属図書館に寄贈され、『随神屋蔵書目録』2輯6号(明治39年12月改正)を含む自叙伝とも言うべき『遺憾録』が個人蔵*6としてあるらしいので、それらに『欽定四庫全書総目』と記載されていないか見る必要がある。長崎次郎書店の方は今も熊本にある書店だが、新刊書店のようだ。
小倉時代ではないが、日記の大正4年6月4日の条に「文求堂に往きて温飛卿集を買ふ」とある。文求堂は中国書の専門店なので小倉時代から鴎外と取引があったとすれば、ここから買った可能性が大だがそれは確認できないので、文求堂は第二候補としておこう。なお、鴎外の小倉時代の前後に当たるが、文求堂の京都時代の『文求堂発兌書目』3(田中文久堂、明治30年10月)や東京に支店を置いた時代*7の『文求堂発兌唐刻書目』(文求堂、明治34年2月)といった古書目録が千代田図書館にある*8ので、機会があれば『欽定四庫全書総目』が挙がっていないか確認してみたい。勿論、記載があっても鴎外が文求堂から買った証拠にはならないが、「全財産を投げ売」つ程の値段かどうかはわかるだろう。
ちなみに、大正5年5月6日付け森潤三郎(京都出町橋通萬里小路西入北)宛書簡に「ほんや中左ノ書御送被下度願上候」とあるが、この「ほんや」は京都の細川開益堂書店の古書目録『ほんや』2巻1号(同年1月)か2巻2号(同年3月)と思われ、鴎外は弟の潤三郎を通してではあるが古書目録から本を買っていたことがうかがわれる*9。また、この年の11月6日付け賀古鶴所宛書簡に「次便ニ可申上候書名ヲ載セタル本只今庫内ニ入レアル故明日出ス積ニ候」と、翌7日付け書簡に「拝啓前便申上候硯書ハ
/欽定四庫全書総目/巻百十五ニアル/欽定西清硯譜二十五巻」とあり、大正5年11月には『欽定四庫全書総目』を所蔵していたことがわかる*10
以上、鴎外は全財産を投げ打って『欽定四庫全書総目』を買い取ったのか色々考察してみた。未見の文献も多いので取り敢えずの中間報告ということで御理解願いたい。

*1:この辺の文章は混乱しているが、「鴎外を読み初めた頃」は「その父親は小倉連隊長だった」にかかるのではなく、「話を聞いて」にかかると解さないとつじつまが合わない(鴎外の小倉時代には小島はまだ生まれていない)。

*2:森鴎外研究』9号(和泉書院、平成14年9月)

*3:ただし、大正10年8月3日の条に「桂[五十郎]先生言四庫事」とあるとのこと。

*4:明治38年5月20日付け饗庭與三郎宛に満洲第二軍々医部の鴎外から出された書簡には「官の文庫にある四庫全書や實勝寺にある蒙古文満洲文などのお経はえらい専門の先生でなくては手がつけられ不申候」と「四庫全書」が出てくる。また、大正9年4月3日付け賀古鶴所宛書簡には「又其上ヲ奮発スルトナルト「四庫全書」ノ新刊(フランスノ注文ニテ発起セル由)ヲ待ツコト相成候コレハ何万円トカ申事ニ候」とある。追記:明治28年1月12日付け市村さん[王篇に賛]次郎宛書簡に「四庫全書の分捕にてもなさばや云々御同感に候」とある。

*5:別紙は残っていないようだ。

*6:コピー版を福岡市総合図書館が所蔵している。

*7:その後東京に全面移転。

*8:『日本古書目録大年表』(金沢文圃閣)による。

*9:明治34年2月21日付け森峰子宛書簡に「潤三郎よりおくりし書目今朝出かけに一寸見しが好き本多くあるやう被存候追々買度ものに候」とあり、これも古書目録、もしかしたら同月発行の『文求堂発兌唐刻書目』かもしれない。

*10:大正10年9月28日付け山田孝雄宛書簡では『欽定四庫全書総目』巻135から引用している。