神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

八巻三兄弟ーー八巻穎男(関西学院教諭)・八巻凡夫(『白樺』編集部員)・八巻経道(博文館編集主幹)ーー

田代晃二*1編『田代善太郎日記』大正篇(創元社、昭和47年10月)と同書昭和篇(昭和48年10月)にキリスト教メソジスト派伝道師八巻かよの三人の息子が出てくる。注で断片的な経歴がわかるのだが、中々詳細はわからない。同日記から八巻かよと三兄弟について拾ってみる(括弧内は日記の日付)。なお、大正篇「編集を終わるにあたって」で注や助言を寄せた人として八巻穎男(姫路市)があがっているので、信頼度は高いと思われる。

八巻かよ・・・キリスト教メソジスト派伝道師(大正2年4月20日)。大正2年末加治木教会の伝道師として活動。田代一家とは親戚同様の交際があった。穎男が青山学院神学部を卒業し関西学院中学部へ勤務するのに伴い神戸へ転じた(大正9年6月16日)
八巻穎男・・・長じて関西学院中学部教諭(大正2年8月5日)。関西学院在学中の人、長男・読みは「としお」(大正2年11月18日)
八巻凡夫・・・雑誌『白樺』編集部(大正8年4月17日)。読みは「なみお」(昭和2年3月17日)。朝鮮に行く(昭和13年2月21日)
八巻経道・・・博文館編集主幹*2大正2年8月5日)。関西学院高等部文科卒業(大正9年3月11日)

田代は大正元年から10年まで鹿児島県立加治木中学校の教員。加治木町は現在の姶良市。長男の穎男については小崎登明『ながさきのコルベ神父』(聖母文庫、昭和63年2月)である程度経歴がわかる。

[昭和五年]当時、八巻先生は三十六歳だった。長崎市内で生まれ、メソジスト派鎮西学院の教師をしていた。父は漢学者で、同じメソジスト派の活水女学院の和漢の教師をし、母は活水神学部の出で、メソジスト婦人伝道師のベテランであった。(略)
八巻先生は、メソジスト神学教授になることを夢みていた。神戸の関西学院に学ぶ。(略)ダンテよりも完全に聖フランシスコに魅せられてしまうのである。関西学院から東京の青山学院神学部に転校した。
(略)
卒業して牧師の資格を得、京都の中学校や関西学院の教師を経て長崎へもどる。昭和五年の秋であった。折も折、大浦にフランシスコ会の修道者が来ているというので、自分の研究に大いに利用しようと、功利的な考えからコルベ神父を訪ねた。ところが彼は、そこで学問ではなく、現実そのものを見たのである。
(略)
戦後は、兵庫県西宮の仁川学院(小・中・高)の校長や神戸海星女子学院大学、尼崎の英知大学の講師などをしたが昭和五十四年、心臓病のため倒れ、床に伏す身となった。(略)それから三カ月後、先生は八十五歳で天に召された。

上記に追加すると、柳宗悦と親しかったようで『白樺』14年6月号(大正12年6月)から8月号(同年8月)まで「聖フランチェスコ伝」を連載している。14年7月号(大正12年7月)の柳「挿絵に就て、その他」では「フランチエスコに関する著書の蒐集家であり研究家」と紹介されている。
また、ネットで読める関西学院大学図書館報『時計台』81号の神田健次「民藝運動関西学院ーー雑誌『工藝』を中心としてーー」によれば、大正2年関西学院高等部文科入学、その後青山学院神学部卒業、10年関西学院中学部英語教員、後にフランシスコ友の会図書館長。なお、「てるお」とルビがふられている。ちなみに、グーグルブックスによれば、『民族』1巻3号(民族発行所、大正15年3月)に「ひだる神のこと」を執筆しているようだ。人名事典には載っていないだろうと思っていたが、『日本エスペラント運動人名事典』(ひつじ書房、平成25年10月)に立項されていた。明治27年生、関学大正3年中退、青山学院大正9年卒業、昭和6年から8年まで仙台の穀町教会主牧師、鎮西学院在勤中の大正12年頃日本エスペラント学会入会、昭和54年9月没などが新たに確認できた。
次に凡夫である。『白樺』編集部にいたのなら学習院の学生かとも思ったが、『学習院一覧』では確認できなかった。『白樺』に執筆はしていないが、「村に生活して、その他」を執筆した『新しき村大正8年3月号(新しき村東京支部)の広告が『白樺』10年3月号(大正8年3月)に掲載されている。この人も新しき村の関係者か(@_@)また、ざっさくプラスによれば、『六合雑誌』480号(大正10年1月)に「赤ん坊の眼」(詩)を書いている。『白樺』といえば、生井知子先生だ。志賀直哉の日記大正12年4月5日の条に「柳神戸より八巻と共に来る」とあり、『志賀直哉全集』16巻(岩波書店、平成13年2月)の「日記人名注・索引」で「八巻」について、「八巻穎男か」「『白樺』に「聖フランチェスコ伝」を執筆している」と注を書いたのは生井先生と思われるが、凡夫については何か御存じないかしら。この他、グーグルブックスによると、『毛野』(奈良書店、昭和6年)という雑誌の1〜3号のどれかに「群馬県植物誌の編纂を提唱す」を寄稿しているようで、植物学者の田代との関係から同一人物だろう。
経道については、グーグルブックスで『文藝通信総目次・執筆者索引』がヒットすることしかわからない。

*1:田代善太郎の次男

*2:「長じて」が略されていると思われる。