神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

小島威彦の第五高等学校時代の同級生群像

小島威彦は、明治36年に現在の神戸市灘区に生まれ、西灘小学校→御影師範附属小学校→海城中学校→第五高等学校→東大文学部(中退)→京大文学部へと進学している。小島と第五高等学校文科甲三ノ組で同級生だった永松定の日記については「小島威彦をしきりに気にする『風車』同人の相良次郎」で言及したが、小島の自伝『百年目にあけた玉手箱』1巻(創樹社、平成7年1月)に永松も出てくる。

もう卒業試験が間近かであった。僕のクラスは学校秀才の多い大人しい組だが、(略)全員それぞれ方針を立てて、英文科に行く永松定、秋沢三郎は二の組の徳広巌城(上林暁)とともに作家を志しているし、相良次郎はモームに夢中だし、町野静雄はキーツを連想させるような、繊細と病弱と俊才と貧乏を兼ね具えている。すでに作家の卵として頭角を現していた後藤寿夫(林房雄)*1と徳広(上林)の後に永松と属[殻一]が続いていた。(略)文学部行きは四人もいて、杉勇バビロニア史に、小長谷達吉は東洋史*2、そしてほとんどは法科で、行政官志望は特待生の波多尚、神崎広、それに佐藤達夫、柳沢太郎、館林三喜男、岩沢博、林田龍喜、植田捷雄*3、高野忠男、そして司法官志望は城富次、馬場義続、鶴田猛。(略)そのなかで京大志望はわずかに赤木[万寿夫]と村井[暎六]と三宅[一夫]の四名*4だった。

この部分の小島の記述はおおむね正確で、『第五高等学校一覧』で確認すると省略した分も含めて少なくとも人名は正しいようだ。記憶だけではなく、名簿を見たのかもしれない。ただ、永松と三宅は留年したらしく、小島らの卒業した大正13年の翌14年に卒業している。
小島は卒業直前に同期の松本朝明が日奈久温泉の金波楼の息子というつてを利用して金波楼に泊まっている。

生涯のなかでもそう度々出会うことのない、不知火の幸とともに今昔の物語を詰め、玉手箱を抱いて熊本最後の旅をおえた。僕が熊本で経験し持参した箱はいたずらに開ければ煙と化してしまうであろうが、時を経て思い出せば、いつも新鮮な玉の輝きを失わないだろう。

小島にとって五高時代の思い出は、旅行に限らずすべていつまでも忘れない記憶として大切な物だったのだろう。
(参考)小島と上林暁については、「上林暁と小島威彦が目撃した山田順子」も見られたい。

*1:後藤は大正12年卒。

*2:小島と徳広を別にしても、町野、相良、秋沢が東大文学部で、その他館林と林田も実際は東大文学部に進学しているので「四人」というのは疑問。

*3:東亜同文書院教授植田捷雄宛絵葉書」参照。

*4:残る一名は町田一男。