神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

新宿「ととや」の経営者、安田善一

新宿「ととや」の経営者が判明。『第十九版大衆人事録 東京篇』(昭和31年9月)によると、

安田善一 (株)ととやホテル社長 新宿区角筈一ノ一二中村屋ビル
[歴]大正3年2月5日生、東京都出身。昭和16年東大美術史学科卒。同17年より19年迄新宿駅前旅館安田本店を経営、同24年ととや社長。現在ととや営業所として新宿駅前ホテルととや、他に酒亭馬上盃、銀座七丁目酒亭馬上盃、クラブ「トト」(ママ)がある

安田は、昭和58年3月24日付日経朝刊に「“文士万来”缶詰ホテル」を執筆している。これによると、安田は当時「柿伝」の経営者。「ととやホテル」は新宿東口中村屋の旧ビルの4階から6階にあった。昭和24年春開業*1で、47年3月末閉店。缶詰になる場所として常宿のように使った最初の人物が、広津和郎だった。そのほか、利用客としては、井上友一郎、田村泰次郎林芙美子獅子文六川島雄三溝口健二、八木隆一郎、加藤唐九郎がいた。ホテルの晩年の客としては、三島由紀夫がいて、憂国の打ち合わせで使って以来の客だった。酒亭ととやの方は、安田が私淑していた川端康成*2の紹介状を持ってきた織田昭子*3が切り盛りした。毎晩飲みに来て「ととや四天王」と称されたのは、中島健蔵臼井吉見河盛好蔵中野好夫だった。なお、「ととや」という名前は、安田が好きだった「ととや茶わん」からとったものである。

ととやホテルの中村屋ビルへの出店については、『中村屋100年史』によると、

そこで(相馬)安雄は、焼け残ったビルを改築して裏側での営業を考えた。この時、当社のビルは、表側を尾津組に占拠されて出入口を塞がれ、両隣は別の店舗が、残る裏側は安田善一氏経営の馬上盃という居酒屋に隣接していた。安田氏と交渉して、焼け残ったビルの3階の一部から5階を安田氏に貸す代わりに、安田氏が湯沢不動産から借り受けている、このビルの裏手に面する土地の一部を貸与するよう要請した。
昭和22年4月、安田氏が承諾し、中村屋復興の布石が打たれることになった。

ビルの3階から5階という記述は、安田の回想とは異なっている。安田は、4階はロビー、5階は洋室、6階は和室で、6階にはちょっとした宴会場もあったとしている。

酒亭「ととや」の客については、spin-editionこと林哲夫画伯(今月12日のコメント欄)によると、

木山捷平『酔いざめ日記』(講談社、1975)にととや(トトヤ)が三度出てきます。昭和29年6月26日、尾崎一雄祝賀会の帰りに浅見、小田、亀井と。32年12月17日に野間文芸賞贈呈式の帰りに寄り、青野季吉浅見淵、保高徳蔵、安藤一郎、平林たい子に出逢い、34年8月3日、芥川直木賞授賞式の帰りに上林暁瀬沼茂樹青野季吉と寄っています。

(参考)「ホテル文学」(http://hotelbook.no-blog.jp/toshokan/2005/11/post_ab7f.html

*1:昭和24年3月5日付読売朝刊に「ニューホテルととや」の広告があり、「旅館・安田本店復活・和洋室、新宿駅前・中村屋ビル」とある。

*2:昭和59年3月17日付朝日朝刊の「二都物語銀座・新宿」によると、安田は若い頃、結核を患い、静養先の軽井沢で川端と知り合ったという。なお、安田は、新宿三丁目の懐石料亭「柿傳」の経営者で、新宿区観光協会副会長を三十年近く務めているとある。

*3:織田作之助の最期を看取った輪島昭子。なお、相良守峯の自伝には、昭和34年9月25日及び49年12月5日の条に銀座のバー「アリババ」の経営者として登場。