神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

京都共生閣の創立者田村敬男

土屋祝郎『予防拘禁所』(晩聲社、昭和63年8月)に、

私は廃人の群れにも似たその集団のなかに見覚えのあるふたりの顔を見つけた。ひとりはたしかに黒木(重徳)である。昭和六、七年当時、私が三高生だったとき、彼はすでに京大を卒業し、京大北門の百万遍で共生閣という書店をやっていて、マルクシズムの本を売っていた。(略)その彼が突然 姿を消したと思っていたら、一〇年後の今日、このように予防拘禁所にきていたのだった。

とある。黒木は注によると、三・一五事件で検挙され起訴猶予昭和6年日本共産党に入党。9年に検挙され、16年に満期出獄、敗戦まで予防拘禁所に収監された。共生閣というと、誰ぞこと書物蔵氏が昭和8年焚書事件を起こした藤岡淳吉の出版社として話題にしてたなあと、ちと調べてみた。
林哲夫氏が「書誌学辞典」(「daily-sumus2」の2014年4月17日分)で紹介した田村敬男(ゆきお)という出版人がいる。『出版文化人物事典』にも立項されていないが、自伝『荊冠80年』(あすなろ、昭和62年7月)がある。それによると、

その頃、東京の出版社共生閣の藤岡淳吉と知り合い、同店の京都支店から発足、後京都共生閣として独立した。
最初は吉田下阿達四十番地で始め、そして河原町丸太町上るに店舗を移し、本格的に書店を始めたのである。
(略)
開店と同時に、百万遍西側にあった松ヤ書店、京大正門前のナカニシヤ、今出川寺町西の宮崎書店、烏丸今出川の広文堂、三菱書店、それから熊野道にあった西川誠光堂、河原町三条西のそろばんや、河原町蛸薬師のサワヤ書店*1、花遊小路の元木屋書店、今出川千本角にあった森安心堂、河原町丸太町角の日の出書房、彦根共生閣の沢勘四郎君、大阪の労農書店、神戸タワー下の上西書店、姫路の千草書店などの各店主に、私の社会科学専門書開店の真意を熱意を込めてお話をし、研究者の手に渡るよう協力を求めるとともに、その研究者達を特高から守って、秘密を厳守して欲しいと依頼し、取引開始を始めてもらった。

そして、黒木も出てきた。

差出人はなつかしきわが友黒木重徳君である。(略)
戦前黒木君が党活動に入る前、京大北門前で古書店を開業した折、既に書店経営をしていた筆者は、助言やら紹介やらして手伝っていた。この古書店をたたみいつか黒木君は地下に潜入、党活動に入り、筆者に非合法の党機関紙「赤旗」を郵送してくれていた。

この黒木の古書店の名前は、田村編の『或る生きざまの軌跡ーー人の綴りしわが自叙伝ーー』(田村敬男、昭和58年9月3版)の吉田文治「京都書籍雑誌商組合議長時代の田村敬男君を想う」への田村の註によると、イスクラ書房といった。吉田は、京大北門前の自分の店「更生閣」の百メートル位西に田村の「共生閣」ができたと書いているが、田村によると誤りらしい。これは吉田の記憶違いで、この店は田村が世話をして開店した黒木のイスクラ書房だという。田村が黒木の店に毎日のように状況を見に出かけたり、仕入れについての助言など頻繁に出入りしていたので間違えたのだろうとしている。なるほど、これでわかった。おそらく土屋も黒木のイスクラ書房と田村の共生閣京都支店(京都共生閣)をごっちゃに記憶していたのだろう。
この田村は関西の出版界では重要な人物の一人と思われ、今後も要注意である。『或る生きざまの軌跡』の飯田助左衛門「わが師父、田村さんとの五十年」には次のようにある。

田村さんは自分の経営する会社の出版ばかりでなく、他社の出版に対しても情熱を沸かせる人でした。河原書店や甲鳥書林の社長、平楽寺書店の先代など、田村さんを相談役にでもしているように出版企画の相談に見え、田村さんの高説を承って帰るという風でした。

追記:「昭和図書館の古書展に通う住谷悦治と絲屋寿雄」で紹介した『春風秋雨ーー住谷(桔梗)よし江の八十六歳誕生日にーー』(住谷悦治、昭和51年11月)は、田村の編集である。

*1:正しくは、サワヤ書房