神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『田代善太郎日記』に風俗研究会や仏教児童博物館、はたまた嵯峨断食道場

『田代善太郎日記』昭和篇(創元社、昭和48年10月)は、田代が京都帝国大学理学部嘱託だった時代の日記。残念ながら京都の古本屋やカフェーに関する記述はほとんど出てこないが、家族の外出先も記録されていてその中に興味深いものがあった。
江馬務の風俗研究会
福田與が風俗研究会に参加していたことは「小笠原秀実の白塔歌会の会員だった福田與」で言及したが、田代の妻たかも参加していた。

(昭和5年10月)
18.(略)妻は江馬(務)氏の講習を聞きてのかへり、乗りたる電車に事故あり傷心。
(同年12月)
11.(略)夜、妻は風俗研究会の<義士会>に出席。
(昭和6年1月)
18.(略)夜、妻と千鶴とは風俗研究会の扮装会(時代風俗実演)のためにゆく。
(昭和7年11月)
23.(略)妻は風俗研究会の見学旅行のため山崎に行く。利休の茶室を見また水無瀬神社に参拝したる由なり。
(昭和10年11月)
15.(略)妻は風俗研究会に幹事として働くことになり(活動するの意で就職の意ではない)島原角屋(すみや)かしの式実演を世話する。
(昭和12年1月)
15.金. 風俗研究会より妻宛の印刷物に、礼式研究会の広告あり、井村氏顧問たり。妻は宿志の成れるを喜ぶ。
(昭和13年2月)
16.水. 民政会館に江馬(務)氏訪問、カシハにつきて聞けど標本なく絵画は自宅にある由にて複写してくれる約をなす。
(同年3月)
6.日. (風俗研究会)礼道研究会講習第1回、食礼につきて行はれるにつき、その準備に妻は一方ならず骨折る。食物を盛る植物、柏を研究したれど充分なる明解を得ず。
(昭和18年3月)
7.(略)妻は江馬(務)氏宅にて講習(礼法)。

( )は編者田代晃二の注。昭和13年2月16日の条の江馬務への脚注には、「風俗研究会々長。善太郎の妻はその礼式部の幹事をつとめていた」とある。福田と田代の妻が風俗研究会に参加していた時期は重ならないようだ。研究会の会誌『風俗研究』は244号、昭和17年11月が最後の発行のようだが、この日記により研究会が昭和18年まで活動していたことがわかる。
・仏教児童博物館
仏教児童博物館については、「『仏教児童博物館第二回年報附資料分類目録』(仏教児童博物館事務所、昭和5年5月)」と「仏教児童博物館の経営に協力した桜井安蔵」で紹介した。当初は龍谷大学図書館に事務所を置き、展示物は各機関に貸与していたが、昭和6年10月に円山公園内に開館している*1。この博物館が田代の日記に出てくる。

(昭和7年11月)
17.木. 尚子と東山女塾(円山公園双林寺内)の「熨斗(のし)折、水引結展覧」を見、児童博物館を見て教室に至る。
(昭和9年11月)
12.月. 尚子児童博物館(円山公園南)の仕事手伝を承諾し妻の添書をもたせてやる。
(昭和10年10月)
4.金. 児童博物館、陶器展をなし販売。
(昭和11年4月)
14.(略)児童博物館に至り爪哇(ジャワ)の仮面陳列を見(略)

「尚子」は、田代の四女。仏教児童博物館は館長が中井玄道、館員は日野大心とされるが、田代の娘が臨時的に働いていたかもしれない。なお、日野の名前も出てくる。

(昭和12年3月)
30.(略)日野大心氏、暇乞に来る、名古屋に行く為なり。

・嵯峨断食道場
嵯峨にあった断食道場については「赤尾照文堂で『小国式断食療法』(嵯峨断食道場、昭和7年?)」で紹介したが、なんとまあ田代の日記中に発見。

(昭和12年7月)
3.(略)正容は(脚気治療のため)断食堂をたづねてくる。
(同月)
22.(略)正容は昨日、断食道場(嵯峨)に行けり。
(同月)
25.(略)釈迦堂にて(電車を)下り断食道場にて正容を見舞うてかへる。単に断食を励行する丈にて何の世話もしてくれず。

「正容」は、田代の三男。断食道場だから何にもしてくれないのは仕方がないかもしれない。

*1:川北典子「「財団法人仏教児童博物館」の研究ーーその設立と活動についてーー」『子ども社会研究』3号による。