神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

プロレタリア出版社自然社の梅津英吉

前田河広一郎の『三等船客』を大正11年10月に刊行した自然社の創業者梅津英吉の孫という方から、「自然社と三浦関造」(2008年9月20日)にコメントをいただいたことがあった。その後、小川未明の紹介で大正12年2月から8月まで同社で勤務したという壺井繁治が『激流の魚・壺井繁治自伝』の「真面目さと出鱈目を半々に」で梅津について書いているのを発見したので、報告しておこう。

今から四十年も昔、東京堂の真裏に当たる神田神保町三番地に自然社という小っぽけな出版社があったが、実はそれがプロレタリア的な文学書の草分け出版屋だったのである。
(略)
さて、話を自然社のことに戻すが、この主人は梅津英吉といって、房州出身で本屋の小僧上がりだった。(略)
この本屋へは初期プロレタリア作家や詩人たちが多勢出入りしていた。たとえば前田河広一郎、金子洋文、小牧近江、今野賢三、新井紀一、藤井真澄、井東憲、内藤辰雄、吉田金重、中西伊之助松本淳三、新島栄治などが思い出される。

また、壺井は「『自然社』時代−プロレタリア文学史の一頁−」『文庫』昭和28年3月号でも次のように書いている。

ここの主人は梅津といって、本屋の小僧からたたきあげた人であった。それがどういう動機で、当時まだ世間の一部からしか注目されなかったプロレタリア文学の出版に手を着けるにいたったかはよくわからぬが、とかく封建的気質の強い一般の本屋のおやじにしては、珍しく物ごとをまともに考え、矛盾の多い世の中で痛めつけられている正しい芽をすこしでも見つけ、それを育てて行こうとする正義心をもっていた。それが、時には年少の僕にさえ、いささかセンチメンタルに見えることもあったが、いい意味でのこのセンチメンタリズムが、彼をしてあまり金儲けにならぬプロレタリア文学作品の出版に手を着けさせるにいたったのであろう。

関東大震災の前は神田区表神保町十番地にあった自然社は、震災後の布施辰治監修・借家人同盟会編『法律上から見た焼跡借地借家権』(大正13年1月)では市外下落合五二六番地に移っているが、布施の『急進徹底普選即行パンフレツト(一)』(大正13年3月)では小石川町(ママ)指ケ谷町六三、布施の『復興計画と住宅対策』(大正14年7月)では壺井の言う表神保町三番地となっている。なお、コメントで教示された研精堂は、岡田実麿『最新英文和訳の要領』(研精堂、大正14年9月)によると、確かに発行者は表神保町三番地梅津英吉である。ただし、梅津は、大正15年5月に萩原久磨燠『太陽を踏破りて』(装幀は柳瀬正夢)を自然社から刊行しており、研精堂と自然社の両方を同時期に経営していたようだ。

ところで、壺井は、前掲「『自然社』時代」で梅津の最期について、次のような驚くべきことを書いている。ただ、関根喜太郎の自殺説同様、こういう伝聞はあまり当てにならない(「書物蔵」の「関根喜太郎自殺説の検証」参照)。

これらの連中がガヤガヤ出入していた自然社は、関東大震災で焼けてしまい、その主人公もずっと昔に亡くなった。(略)
僕は地震のすぐ後で、まだ余熱のある焼跡を訪れて見たが、自然社の一家はどこへ避難したか、わからなかった。その後、主人は発狂して、暫く病院へ入っていたが、間もなく死んだということを人伝てにきいた。何が原因の発狂か、いまだにわからないが、とにかく使用人を一人しか使っていなかったこの自然社という出版社が、初期プロレタリア出版の草分けだったということを、日本のプロレタリア文学史の頁に書きとめておく必要がある。

(参考)梅津は、大正12年7月19日付読売新聞の前田河広一郎「鮮人作家鄭氏の近業(一)」に、

中西伊之助君が、刑務所へ三箇月の刑期を充たすべく、恰ど拵へかけた『藝術戦線』の事務の引継のことやらなにか相談しに訪ねて来たとき、小川未明、水守亀之助、林政雄、梅津英吉ともう一人の青年と、私とが、その場で、即興の送別会を開いた。この三月二十六日のことだつた。

と出てくる。『藝術戦線』は、中西伊之助編で自然社、大正12年6月刊。林については、「アナーキスト林政雄につぶされた聚芳閣」(9月7日)参照。