神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

津田光造の没年が不明だ

辻潤の妹恒の夫だった津田光造については、「大川周明楢崎皐月」(2008年4月20日)で言及した。この津田は、『日本アナキズム運動人名事典』によると、

津田光造 つだ・こうぞう 1889(明22)12.2−? 神奈川県足柄上郡南足柄村(現・南足柄市)生まれ。早稲田大学英文科中退。(略)22年自由連盟の機関誌『自由人』に「米は権力よりも強い」を書く。自由人連盟の会員だった辻潤と出会い、妹恒を妻に迎えることになったのではないかと思われる。(略)

とある。最近、津田の名前を幾つか見かけたので、記録しておこう。

・『白鳥省吾物語』下巻の「白鳥省吾関連年表」によると、大正14年9月13日銀座の北日本で開催された加藤一夫の帰京歓迎会の出席者は、白鳥、辻、津田、小川未明、山崎今朝弥、卜部哲次郎、荒川畔村、安岡黒村、芳賀融、新居格下中弥三郎、権無為、徐昌道、工藤信、村上哲夫、本間巷一郎、室伏高信、鳥山鉱造、村松正俊、山内房吉、福田正夫坪田譲治川崎長太郎、中野正人、八木喜之助、細田東洋男、遠地輝武、山川亮、福中巧、川口敬助、江口渙。→荒川畔村=関根喜太郎や警察のスパイ説もある権無為(「ポール・ケートの東京インターナショナル倶楽部と権無為」、「東京国際倶楽部に結集したアジア人」参照)など、豪華なメンバーである。

・井上康文「福田正夫と私」『自由詩』13号(昭和27年9月)によると、同年7月27日小田原市早川久翁寺で開かれた福田の追悼会に出席したのは、白鳥、二見孝平、津田、川崎長太郎、林鼎、永田東一郎。

前記「大川周明楢崎皐月」で言及したが、昭和29年2月18日付大川周明宛書簡が『大川周明関係文書』に収録されている。同書に収録されている津田の書簡は、同年11月29日付が最後である。それによると、津田の住所は小田原市矢作二二〇県住七号で、大川に序文の礼を述べている。戦後「著書」を理由に公職追放となった津田だが、県営住宅に住んでいるようでは、生活はあまり裕福ではなかったと思われるが、報徳産業研究所を主宰していて、そこから大川の序文付の著作を刊行したのであろう。今のところ、これが確認できる最後の消息である。