神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『婦人公論』編集長八重樫昊

中央公論社の社史から八重樫昊に関する記述を拾うと、

昭和5年11月 八重樫昊、婦人公論編集主任となる
  7年6月 八重樫昊、婦人公論編集部長となる
  10年2月 婦人公論編集長八重樫昊、事業部長に転ずる

八重樫はこの後、同社を辞めたようで、同姓同名の人が、昭和15年から四季書房(麹町区六番町三番地四)の発行者となっている。戦後、川端康成『虹』などを発行した四季書房(発行者:世田谷区世田谷町二ノ一三〇三 山田博信)とは無関係のようだ。

『出版人物事典』に経歴があるので、要約すると、

八重樫昊 やえがし・ひろし 1907〜1981 『婦人公論』編集長、普通社創業者。慶大卒。平凡社を経て、昭和5年中央公論社入社、嶋中雄作社長の秘書から『婦人公論』編集主任に抜擢、27歳で編集長。退社後、戦時中は四季書房を経営。昭和33年普通社創業。

これに『新文化』昭和56年6月18日号などから補足すると、
・昭和6、7年頃東京編輯者協会事務局長
平凡社入社は誤りか
昭和12年従軍記者として林房雄と上海へ
昭和13年3月原勝と日本青年外交協会を創立、常務理事となる。
昭和15年四季書房創立
・戦時中の筆名は、林秀
・戦後、「日本青年外交協会常務理事」を理由として、公職追放
・河出書房顧問、三栄書房顧問
・昭和56年6月4日没
徳富蘇峰の秘書八重樫祈美子は姉。その関係で、蘇峰の紹介により中央公論社へ入社

なお、NDL−OPACが『日米外交白書』(日本青年外交協会、昭和17年)の著者林秀を1914年生、『共栄圏未来記』(四季書房、昭和17年)の著者林秀を18??年生としているのは、誤りということになる。

(参考)早川喜代次『徳富蘇峰』によると、八重樫祈美子は、岩手県花巻生、精華高女と青山女学院英文科卒。『主婦之友』の婦人記者として活動中、大正14年頃蘇峰の口授を取りに民友社に来た。間も無く退社し、民友社に入社し、蘇峰の秘書として特に文筆方面の補助者として精励。昭和18年12月1日没、40歳。また、『岩手人名辞典』(新渡戸基金、2009年6月)によると、明治37年11月3(ママ)日生。本名君子、号東香。大正12年から昭和3年まで主婦之友社勤務。
『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』昭和8年8月23日付母木光宛書簡中の「八重樫さん」への注として、「八重樫祈美子(明治37・11・23〜昭18・12・1.花巻町出身。昭和四年頃まで主婦之友社社員。本書簡当時は徳富猪一郎(蘇峰)の秘書およびその弟昊(明40・2・11〜。当時中央公論社社員)、三四次(明41・1・3〜。当時早稲田大学学生)」。