神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『日ポンチ』の編集者鶯亭金升

黒岩比佐子『古書の森 逍遙』の書籍コード047は、『風俗画報臨時増刊 日ポン地』(東陽堂、明治37年10月20日)。この『風俗画報』の臨時増刊でポンチの特集号である『日ポンチ』*1の編集を、鶯亭金升が担当していたようだ。鶯亭の日記によると、

明治37年12月3日 いつしか十二月とはなりしが、今年は幸いに、日ポンチという当り物を作りしおかげにて、まづ昨年の如き大晦日に遇わずともすみそうになり。顧れば、昨年十二月三十日に、此地へ居を移せし時は、風流どころの騒ぎではなく、随分大まごつきなりしが、まじめに世をわたる甲斐ありて人も棄ず、世にすてられたる筆もまた世に出る事となりて、東陽堂、珍聞館、寅文社、図案社、博文館、日々新聞社等を、掛持ちの身は忙しくても、素より好める道なれば、苦とも思わず

    12月13日 ぬひ出あるくにつき、休みて宅にて日ポンチを編集す。明日も餅升子方へゆく約束あれば、此二日は休む由を東陽堂へ報ず。

  38年9月5日 午前八時水交社へゆき、日ポンチ廿二号の校正をすまし正午帰宅

    9月8日 日ポンチ廿二号今朝発行。

    9月12日 午前出勤、日ポンチ廿三号脱稿

  39年2月24日 日ポンチ三十二号発行。

    7月9日 其夜日ポンチ卅八号編輯の為め夜を明す。

    9月12日 ユメポンチ二号脱稿。

『日ポンチ』は、明治37年9月創刊と思われるが、39年における同誌の発行部数は、3,500部だったという。「雑誌一覧表 明治三十九年九月調査 警視庁」の数字だが、「維持スルニ足ル」と評されている。鶯亭の編集はそれなりに成功したか。

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出版ニュース』7月下旬号の「編集者の日録」は、『彷書月刊』の副編集長皆川秀氏。「闘病中の編集人の快復と我が身の行く末を、目黒のお不動さんのお札に祈る日々であります」と。

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「人間グーグル」も暑さで劣化しつつあり。毎年、「去年はこんなに暑かったかしら」と思うのは、地球温暖化のせいか、加齢による体力の衰えか・・・

*1:表紙は「日ポン地」で、目次は「日ポンチ」となっているが、ここでは鶯亭の表記に従う。