神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

東大附属図書館司書増田七郎は増田義一の養子だった

古川緑波、本名郁郎。明治36年8月13日、元貴族院議員で、医学博士の加藤照麿の六男として生まれる。加藤家は、長男以外は他家へ養子へ出す方針だったため、満鉄役員の古川家の養子となる。郁郎の弟七郎も、増田家の養子となり、のち東大附属図書館司書となる。

この増田七郎を『第十四版大衆人事録 東京篇』(昭和17年10月)で見ると、

増田七郎 東京帝大図書館司書 小石川区原町一二五
[閲歴]男爵加藤成之弟、明治卅八年四月生れ、増田義一の養子となる。昭和三年東大文学部国文科卒業
[家族]妻豊子(明四四)、陸大将尾野實信二女、御茶水高女卒

とある。

増田義一というと、実業之日本社の増田と同姓同名だが、同事典の増田義一の項を見ると、同一人物であった。衆議院議員実業之日本社大日本印刷社長の増田の養子として、「七郎(明治三七[ママ])同妻豊子(明四四)」とある。念のため、実業之日本社編『増田義一追懐録』の年譜を見ると、

明治39年 親戚加藤照麿七男七郎を養子として愛育した。

昭和3年3月 養子七郎、東京帝国大学文学部卒業大学院に入る。

  6年5月 養子七郎、文学博士姉崎正治夫妻の媒酌により陸軍大将尾野實信次女豊子と結婚

  18年12月 養子七郎病死(享年三十九)

とあり、東大附属図書館司書の増田は、増田義一の養子で間違いなかった。なお、義一と「親戚」というのは、義一の妻浪江(明治16年生)が、七郎の母津彌(加藤照麿の妻、明治2年生)の妹だったということである。

『図書館学関係文献目録集成―明治大正昭和前期編』(これも、金沢文圃閣)を見ると、増田には図書館に関する幾つかの著作があり、『日本古書通信』(昭和14年10月)にも「図書館随筆」を書いているようだ。

(参考)2007年7月8日

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浅倉久志『ぼくがカンガルーに出会ったころ』(国書刊行会)の表題作によると、

いったん高じたペーパーバック熱は、しかし、とどまるとこところを知らない。うまいことにその欲求を満たしてくれる店が見つかった。戎橋筋と御堂筋の角を北へ入ったところにあるカエデ書房である。間口一間半ぐらいのこの小さな古本屋さんはいまでもちゃんとあるが、その後ぼくが大阪を離れるまで、十年近く重要なペーパーバック供給源になってくれた。

カエデ書房は、現在は天王寺区生玉へ移転したようである。

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『健康法と癒しの社会史』の著者田中聡も、晶文社から著作を刊行している。『怪物科学者の時代』だが、「怪物科学者」として、佐田介石、明石博高、加藤弘之、越澤渦満、杉浦重剛井上円了、日下部四郎太、福来友吉酒巻貞一郎石塚左玄桜沢如一、屑屋極道、橋田邦彦、寺田寅彦南方熊楠稲垣足穂をあげている。福来の東大追放については、私の言うところの「通説」(1月16日参照)によっている。

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鷹見本雄『国木田独歩の遺志継いだ東京社創業・編集者鷹見久太郎 グラフィック誌により女性と子ども文化育てる『コドモノクニ』『少女画報』『婦人画報』と』(2009年11月)なるすごい本が出ているらしい。黒岩さんは、ご覧になられたかしら。