平井昌夫『国語国字問題の歴史』巻末の「国語国字問題年表」の昭和17年7月の欄に「島田春雄、鬼塚明治、森本忠、大西雅雄等二十余名は国語国字改良反対の反動団体たる「日本国語会」を発起(十一日)」とある。島田も森本も、戦後、大日本言論報国会理事だったことを理由に公職追放となった。
森本は『僕の詩と真実』(日本談義社、昭和43年7月)で島田について次のように回想している。
島田春雄氏も戦後追放令にかかって、ひどく苦労した。神社新報に社説を書かしてもらっても表向き論説委員といふわけにはいかなかった。「力が強いから、発送係りといふことになってゐた」と彼はいふ。のち日立製作の宣伝部出版課に嘱託となってゐたが、とつぜん狭心症で倒れ、東大病院に入院した。小康をえて摂生はしてゐるとはいふものの、体重も二十三貫、酒も煙草もやめようとしない。日立の重役馬場博士の依嘱で調べ物などぼつぼつやってゐた。今はそこもやめて専ら作詞作曲に熱中してゐる。
戦前小島威彦や藤澤親雄と闘ったトンデモバスター島田も、戦後は苦労したようだ。そして、同書では、鬼塚について、「貴族院速記課の鬼塚明治氏(現国会図書館カード課長、フオーク・ダンス指導者)」と書かれている。「書物蔵」にも出てこない人だが、どういう人だったのだろうか。
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『読売新聞』の「編集長魂」の残る二人は、『別冊文藝春秋』の花田朋子(42)と、『ファウスト』(講談社)の太田克史(36)でした。
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