神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

上西亘「藤澤親雄の国体論ーー戦前期を中心にーー」『昭和前期の神道と社会』への補足

従来いわゆる「偽史」はトンデモ扱いされて言及する者は好事家などに限られていたが、近年立教大学偽史に関するシンポジウムが開催され、小澤実編『近代日本の偽史言説』(勉誠出版、平成29年11月)として刊行されるなど、アカデミックな研究者も参入してきた。私の好きな藤澤親雄についても、様々な観点から研究者が言及するようになってきた。國學院大學研究開発推進センター編・阪本是丸責任編集『昭和前期の神道と社会』(弘文堂、平成28年2月)所収の上西亘「藤澤親雄の国体論ーー戦前期を中心にーー」もその一例である。上西氏の肩書は、國學院大學研究開発推進機構助教である。一時期私も藤澤を追いかけていて、アンテナを張っていたが、最近は関心も薄れ、本論文に気付いたのも偶然であった。この論文が出発点にしたという、藤澤が「「理論的学問的根拠」のために古事記はもとより、内外の「超古代文献(偽書)」は動員されなければならなかつたのである」とする阪本是丸「「日本ファシズム」と神社・神道に関する素描」*1も知らなかった。
さて、上西論文は藤澤の政治思想研究の変遷をたどり、特に『世紀の預言』(偕成社昭和17年3月)に出現する「超古代文献」への言及、『公論』昭和18年5月号及び9月号上で展開された藤澤への批判及びその結果としての「偽書」への決別に注目している。上西氏は大國隆正の研究者で、「隆正の思想が藤澤の神観念や政治思想にとって非常に重要な位置を占めるものである」としていて、非常に興味深かった。
ところで、本論文もそうだが、藤澤の経歴について言及する論文はたいてい小宮山登編『創造的日本学:藤沢親雄遺稿 附諸家追悼・随想録』(日本文化連合会、昭和39年2月)の「経歴年譜抄」に依拠している。ところが、この年譜には誤りが多い。私は昔「国際人藤澤親雄がトンデモに至る道」で年譜を作ったことがあるので、上西論文中の藤澤の経歴で気付いた点を指摘しておこう。
大正14年九州帝国大学に法文学部が新設されるにあたって同大学の教授に就任→教授就任は大正13年(大正13年11月7日付け『官報』)
昭和6年同大学教授を辞し→辞職は昭和5年8月
昭和10年大東文化協会理事兼大東文化学院教授→教授就任は昭和8年(『大東文化大学五十年史』)
・(昭和18年)当時大政翼賛会東亜局長→東亜局は昭和17年に興亜局に改称。そもそも、藤澤が東亜局長又は興亜局長になった事実はないと思われる。東亜局長及び興亜局長は永井柳太郎(『翼賛国民運動史』)

*1:『研究開発推進センター紀要』6号、平成24年