大正から昭和戦前期にかけて神保町に田沢画房という名曲喫茶があった。これについては、鹿島茂先生が『ちくま』に連載した「神田神保町書肆街考」で、飯島正、渡辺一夫や玉川一郎が通ったと言及している。そして、鹿島先生が田沢画房の娘で舞踏家だった田沢千代子について、どうなったか気になり、拙ブログを見つけたことについては、「鹿島茂「神田神保町書肆街考」にオタオタ日記」で紹介したところである。さて、田沢画房のことをすっかり忘れていたオタどんであったが、『新美南吉・青春日記ーー1933年東京外語時代ーー』(明治書院、昭和60年10月)で再会できた。
(昭和八年)
十二月十六日 土曜日
学校がひけたら畑中と東京館でおちあふ事になつてゐたので行つて見たがゐない。(略)又澄川のとこへ来て、一緒に田沢と云ふ音楽趣味の勝つたいやに骨董品をあつめた喫茶でベートーベンの田園交響曲をきいた。(略)
「畑中」は畑中俊平で新美の半田中学校時代の同級生。「澄川」は澄川稔*1。いやあ、また田沢画房に出会えるとは思ってませんでした。
そして、心臓に悪いことに、田沢千代子も出てきた。
(昭和八年)
十二月二十一日 木曜日
(略)それから澄川にあつた。トレビアンと云ふ所で田園交響曲をきいた。(略)五枚目をきかずに田沢へうつつて、そこで始めからききなほした。娘がゐた。均整のとれた姿態と、魅力はないがぬけ穴のない顔、白い手。この娘が舞踏をする千代なんだなと思つた。中頃に若い外人(多分英人)がやつて来た。こん意にしてゐるらしく、娘と二人でむつまじく話してゐた。一方は英語で一方は日本語で。(略)
当時新美は東京外国語学校英語部の学生で、中野区新井薬師に下宿していた。田舎から上京した若者のお決まり通り映画館や喫茶店に入り浸っていた。日記には他にエデン、処女林、ボーニー、マイハウス、プドルドック、南蛮、ナナなどの喫茶店が出てくる。しかし、残念ながら田沢画房に関する記述は上記だけである。