黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書)によると、坪内逍遥は明治41年6月の独歩の葬儀に会葬している。
そこで、逍遥の日記を見てみると、
明治42年7月13日 独歩の「欺かざるの記」前後二巻、過日より読始め読了(荒庭の参考)
故ありて荷風のアメリカ物語を読む
独歩の「濤聲」を再読す
45年2月12日 本間久雄来(婦人画報の件)
2月13日 此朝本間久雄を枝元へ紹介す
2月15日 朝 大竹国治来、婦人画報望でなき体 即ち西本波太へ照[ママ]会す
2月18日 森岡来る グラヒックは歇めたり云々 枝元へ紹介す
3月25日 午後博文館行 石橋と田山にあひ山田と国木田遺族へ贈金の相談
3月31日 山田遺族 国木田遺族へ200宛小切手にて送付
4月1日 夕 国木田遺族礼に来た
残念ながら独歩が亡くなった頃の日記は存在しないので、没後の日記から引用。
「森岡」は森岡格雄(明治38年早大英文科卒)か。「枝元」は黒岩さんの本に出てくる近事画報社時代の『婦人画報』の担当者枝元枝風と同一人物と思われる。また、博文館の「石橋」と「田山」は、石橋思案と田山花袋でしょうね。「山田」は明治43年10月に亡くなった山田美妙。年譜によれば、明治45年3月19日に文部省の文藝委員会より賞金2200円を授与された逍遥は、1000円を協会に寄付し、残金を二葉亭(800円)、美妙(200円)、独歩(200円)の遺族に分贈したという。なかなか余人にできる話ではないね。
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『諸君!』1月号から新連載で高島俊男「退屈老人日記(1) 漢字で書く日本語の辞書」が始まっていたのだね。
冒頭は『新潮日本語漢字辞典』の話。