神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

宮内省臨時帝室編修官幸田成友の書婬としての罪(その2)


明治天皇紀』は、『文學界』連載の黒岩比佐子さんの「歴史のかげに“食”あり」でも活用されているところであるが、その編纂の過程では、幸田成友諭旨免職になるなど色々騒動があったようだ。幸田は、先に紹介した日記の筆者に愚痴をこぼしていた。


大正9年2月27日 夜 赤坂表町幸田成友君訪問(略)竹越三叉 明治天皇御伝記編纂官となりしか 文徳実録を天皇之御伝記なとゝいひ 軽薄才子ニテ屡々幸田君論難を加へしも 一向さうなると唯黙して居る斗り 金子堅太郎かつへこへと弁するのミ 池辺義象等も蔭てハとかういへとも 面と向つては竹越二何ともいはす いや役人なとゝいふものもいやなものてと 殊によらハ幸田君辞職らしゝ 元来竹のこしは新聞やより政海へ入りて失敗したる男 西園寺之幇間ニて 此度西園寺より金子へたのみてこゝへ随居したるよし也


竹越与三郎が、宮内省御用掛として臨時帝室編修局入りしたのは、大正9年1月。大正10年1月には、編修官長就任。竹越については、高坂盛彦『ある明治リベラリストの記録―孤高の戦闘者・竹越与三郎伝』(中央公論新社、2002年8月)に詳しいが、同書ではわからない、幸田から見た竹越観がこの日記でわかり興味深い。
金子堅太郎は、大正4年7月から大正11年4月まで編修局副総裁、同月から昭和8年9月まで総裁。ただし、大正8年5月の田中光顕総裁被免後は総裁就任まで、総裁職務を摂行していた*1


追記:東京メトロのフリーペーパー「アーバンライフメトロ」ですずらん通りを紹介しているみたいだす。

*1:堀口修「「明治天皇紀」編集と金子堅太郎」(『日本歴史』2003年6月号)参照。