神保町系オタオタ日記

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昭和19年《國之楯》を完成した直後の小早川秋聲が『南木芳太郎日記五』に


 昭和19年2月22日小早川秋聲の《國之楯》が完成した。この作品は、一昨年の夏京都文化博物館の「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」展で展示された。この時期の小早川が、『南木芳太郎日記五』(大阪市史料調査会、令和4年11月)に出てくるので、紹介しておこう。

(昭和十九年)
二月十一日(金曜日)紀元節
(略)難波別院に至る。(略)
番所にて鹿野氏・長島氏・山口氏と会見。明治天皇聖蹟顕彰について相談す。(略)
二月十七日(木曜日)
◯京都東山巡り護国神社前東一休庵にて(大谷大学徳重氏*1・小早川氏・山口氏・鹿野氏等と会合の事、午後四時の約束也)。
(略)
二月二十四日
(略)
◯午後五時、難波別院へ行き安井栄之(少年審判所長)・勝山検事・藤岡事務長官・小早川秋声氏等と協議後、信濃橋ふた葉にて会食す。
二月二十八日(月曜日)
(略)
◯難波別院発起人会欠席す、電話にて断る。
三月十日(金曜日)午後より寒し
(略)
◯難波別院より、午後四時、相談会、「明治天皇聖蹟絵画選定」に就て、中山副会長・江崎政忠・中根貞彦・藤岡・私・朝倉の諸氏。
(略)
四月十九日
(略)
◯難波別院長島賢正氏より明治天皇避[ママ]画館の順序書を送り来る。
(略)

 「鹿野氏」は、南木が主宰した『上方』149号(上方郷土研究会、昭和18年8月)の「上方日記抄」昭和18年8月24日の条に出てくる難波別院輪番の鹿野久恒と思われる。難波別院は、東本願寺の別院である。  
 また、表紙に《國之楯》が載る前記展覧会の図録(求龍堂、令和3年8月)の年譜(浅田裕子編)によれば、秋聲の父は東本願寺明治35年から会計顧問を務め、秋聲も明治27年から同寺の集徒として僧籍があった。昭和11年12月には横浜東本願寺別院の本堂に掲げる《太子伝》と《宗祖伝(親鸞聖人)》の絵伝壁画の執筆を受けている。更に、昭和14年11月に鹿野久恒の発願による石川県仏願寺の蓮如上人一代記壁画六作を完成し枳殻亭で内示展を開催している。
 これらの事から、南木の日記に出てくる「小早川秋声」は、《國之楯》の小早川と同定できそうだ。日記の前後の文章から小早川は、大阪に行幸した明治天皇聖蹟絵画を頼まれた可能性があるが、どうだろうか。戦局が益々悪化していく時期で、依頼を引き受けたのか、作品は完成したのかどうか。ただ、翌年3月の大阪大空襲で難波別院は壊滅するので、作品があったとしても焼失したことになる。

*1:徳重浅吉