幸田露伴の弟、幸田成友(しげとも)の年譜を見ると、不思議な記述がある。
明治43 (1910)年9 月慶應義塾大学部講師。
大正7 (1918)年6 月8 日宮内省臨時帝室編修官。
11 (1922)年宮内省臨時帝室編修官を病気のため辞す。
6 月16 日東京商科大学予科教授兼同大学助教授。
病気で、編修官を辞した人間に予科教授・大学助教授が務まるのか、と思いたくなるが、多分、事情に通じた人には、病気は名目で何かあったのだろうと、わかる記述なのだろう。幸田が宮内省臨時編修官(明治天皇紀の編纂)を辞した真の理由を記載した日記を見つけたので紹介しよう。
大正11年5月9日 午後二時頃帰宅 食事すむ時 幸田成友君来 秘といふ印ある書類を写して役所之引出へ入れ置きしが見つかりて副総裁 明治天皇御伝記編纂 藤波言忠ニ呼つけられ 五月一日 あたまから貴様呼ばゝりにて辞職を強要せられ それも病気といふ名目にてとうとう今日退官となりし 若し新聞屋でも聞きに来られるとつい言過きるかもしれぬ故 逃けてきたとのこと也 宮内省のものにも女のやうなる人間ありて 官を売ることなと平気な奴も居るへし されと幸田君之書婬 此災を招きたるなるへしといときの毒におもふ
これによれば、またまた*1幸田も諭旨免職であったことが判明する。
幸田を「書婬」呼ばわりするこの日記の筆者は、他にも幸田の「書婬」としての「罪」を記録している。
(参考)「書物蔵」1月28日分