朝倉無声が帝国図書館の朝倉とすれば、朝倉治彦は国会図書館の朝倉と言うべきか。もっとも、前者はほとんど無名に近い人、後者は図書館界でこの人を知らなければモグリと言われるぐらい有名な人(なのだろう)。
さて、その朝倉治彦は、幸田成友との出会いについて、次のように回想している*1。
幸田先生にお目にかかったのは、あとにも先にも、たった一回であった。上野図書館に入って、本に関する知識の獲得に心の進んでいる頃であったと思うが、つれていって下さったのは、当時整理課長の弥吉さん*2であった。まず、君は朝倉無声の子供かねといわれた。これは、多くの人の抱く疑問らしいのであるが、全く関係のない旨を答えた。
朝倉治彦に、無声の子供かと聞いた幸田は、おそらく、無声がかつて、帝国図書館時代に図書破壊行為により図書館を追われたことを知っていたのであろう。
先に紹介した幸田を「書婬」呼ばわりした人物、すなわち、三村竹清の日記*3によれば、
大正11年1月7日 朝倉無声は 図書館勤務中いろいろきりぬきなとしたる噂なりしか或時帰省中卓子のひき出しよりいろいろ悪事あらはれ 帰京後出勤ニ及はすといふことになりし也とそ 其時山田君国書刊行会に居たる処へ来り これからのミに行かうといふ 近所之とりやへ行きしニ女の上る処へ行かうといふのて そこを出てうまく尾張町ニてわかれてしまひしニ とうとう三日斗帰らす 涙金之二百余円 皆のミつくして帰りたる由 尤も今にても 一年ニ一度位はかういふ豪遊をする也と云
この三村が山田清作から聞いたという話によれば、不在中に図書切り抜きなどの悪事が発覚し、無声は諭旨免職になったと推測できる。それにしても、帝国図書館員が図書破壊行為を行っていたとは。昨今、図書切り抜き行為が日本人のマナーの低下の例として挙げられるが、かつて、帝国図書館員自身が行っていたのだ。
無声は、やけになって、退職金を飲み尽くしてしまったみたいだが、豪快といえば豪快な人物。ますます、興味が湧いてきた。
幸田と朝倉無声の二人の事例から得られる教訓は、職場を休むときは、引き出しに悪事の証拠を残しておいてはいかんということだね(笑
(参考)三村は、前掲の引用部分に続けて次のように記している。
無声の先妻は 無声か早稲田学生時代ニ箱へパンを入れて売りあるきて 助けたるものにて 卒業後も生活費二十円より渡さす 蔭でハ塩をかけて茶漬けをたへてゐた位の婦人也しか いつか無声今之妻を拵へ 先妻が郷里の四国へ帰りたる留守中引入れ 始は国から姪が来たといふ吹聴なりしが 或朝同衾中を山田君に見つけられ 不倫を咎められ いたく恐縮してゐたる中 先妻帰り大もめにもめて 先妻は泣々郷里へ帰りし也と云 島田筑波を或家へつれゆき こゝか女房の居た家也といひし事あり 其素性も分り居る由也 これも山田君之話
いつのまにか朝倉無声のキーワードができているが、書物奉行氏かと思ったら違う人だった。