ある人の明治45年の日記の一節。
七月一日
六月三十日 追記
朝、漸く起きたところへ、山本鼎君来る。(略)
山本君が仏蘭西へ行くといふことが自分の感情に与ふる影は何であらう。
七月二日
(前略)そこへ正宗得三郎君に出逢ひ、所詮山本君は青木町にはゐはしないときいて、行く気も失せ、転じて平賀君を台所町に訪うたれど不在、(後略)
七月五日
朝、雨、八時三十八分の汽車で立つ山本君を新橋に見送る。今度はそつと立つといふわけなので、見送人も少し、北原鐡雄君に逢ふ、久しぶりだつた、藤野常雄君にも久しぶりで逢つた。山本君は国府津に一寸寄り、いよいよ明日神戸から乗船するのだ相だ、二三年間は逢へないことになる。
「明治45年7月」、「山本鼎」、「正宗得三郎」ときたら、聖子ちゃん*1みたいに「ビビビ」とくるのは、小谷野敦氏ぐらいか・・・
また、『山本鼎の手紙』(上田市教育委員会、1971年10月)中の「渡航日記」には、
とある。谷崎潤一郎の『青春物語』の続編を読んでいるような気分になるね。
しかし、谷崎自身はどちらにも見当たらない。これでは、小谷野氏の詳細年譜に追加してもらえそうなネタはない。残念!
帰京した谷崎に山本を見送る余裕があったかどうか、新たな疑問も残ってしまった。
ちなみに、冒頭の日記は、若山牧水の日記(『若山牧水全集』第3巻、増進会出版社、平成4年12月)でした。
*「書物蔵」の更新はされていないが、書物奉行氏は健在であった。
本日(11日)の朝、伝書鳩を飛ばしたはずだが、途中で鷹にでも襲われたか返事がないね。忙しくて見てないかな。
追記:ワーイ、「書物蔵」が復活したぞ!
「猫を償うに猫をもってせよ」はどうなっておるんじゃ・・・
余談だが、一々ブログには書かないけど、わしは月に1回位のペースで都内に潜伏してるのだよ、書物奉行さん。