岩波講座『帝国日本の学知』の第6巻『地域研究としてのアジア』中の中生勝美論文(「日本占領期の社会調査と人類学の再編」)によると、GHQの民間情報教育局「世論および社会調査部」にアメリカから人類学者が派遣され、ハーバート・パッシンという人物が中心的な役割を果たしたという。また、
パッシンは、戦時中にミシガン大学の陸軍日本語研修学校で日本語を習得し、一九四六年初めに、占領軍の言語将校として来日した。彼は、来日当初、博多で電信の検閲の仕事をしていた。陸軍日本学校の幹部将校が博多に来た時、パッシンの経歴書をみて、彼がシカゴ大学の人類学を卒業し、世論調査の経験があることを知り、連合軍総司令部民間情報教育局に転任することを勧めた。
「シカゴ大学」「人類学」というとスタール博士が浮かんでくる。「もしかしたら」と思い、参考文献のハーバート・パッシン『米陸軍日本語学校』(TBSブリタニカ、1981年9月)を見ると、スタール(スター)に言及していた。
大学創設期の人類学者フレデリック・スターは、すでに二十世紀の初めから日本を訪れていた。(中略)
しかし、スターは二つの理由から、私の学問的成長にほとんど影響を及ぼさなかった。その第一は、私がシカゴ大学に入ったときには、彼はとうの昔に大学を去っており、(後略)
第二の理由は、その時期のわれわれにはスターは理論的に非常に不確かな、あるいは理論をもたない古いタイプの民族学者として映ったことである。(中略)スターによって代表される悠然として古めかしいタイプの人類学者は、私たちの興味の埒外にあった。
残念ながら、パッシンは、スタール(1933年8月没)と出会うことはなかったようだ。しかし、この後、驚くべき記述がある。
私が初めて日本を訪れて半年ほどたったころ、一九四六年七月のある日、たまたま奈良郊外の若草山の近くを友人と散策していると、“性の博物館”という触れ込みの建物に行き当たった。(中略)その前庭に、札博士の像*1が立っていたのである。私は突然、札博士が自分の大学のスター教授であること、そしてたとえ“性の博物館”であったとしても、彼の名前を冠した博物館が創られるほど博士が日本で広く親しまれていることを知り、シカゴ大学に対する誇りの念が胸にわき上がるのを覚えた。またそれと同時に、学生時代に彼に対してさほど関心を払わなかったことを恥ずかしく思った。
この博物館は、山口昌男『内田魯庵山脈』で、スタールの通訳九十九豊勝が昭和3年頃には奈良あやめが池のほとりに建てたという東洋民俗博物館のことだね。
日本を愛し、日本に骨を埋めることになったスタールだが、まさか日米間で開戦し、自分が教鞭をとったシカゴ大学の人類学徒が占領軍の一員として派遣され、自らの像を有する博物館を訪問するとは予想だにしなかったことだろう。
(参考)
ハーバート・パッシン略歴
1916年シカゴ生まれ
1942年シカゴ大学人類学部卒、専攻社会人類学
前掲書発行時点で、コロンビア大学社会学部教授
2003年2月没
*「書物蔵」が最近更新されていない。どうしたのだろうか。海外にセドリにでも行ったか・・・
ドク男みたいだけど、家人と同居のようだから一人で倒れていることはないだろうけど、心配。伝書鳩を送るか・・・