医者もどきだったら、載ってはいないだろうと思いながらも、『静岡県の医史と医家伝』(土屋重朗)を見ると、何と医者であった(同書393頁、496−497頁)。
山崎増造は安政六年(1859)周知郡犬居村の生まれ、明治七年同地区の小学校の訓導補、八年東京医学校監事の山崎泰輔をたよって上京、九年末東京医学校通学生教場(別課)入学、十四年同校卒業、十五年二月県立静岡病院幹事となったが、同年六月県立病院廃止となったので、掛川公立病院院長となった。東遠衛生会をつくり、この地方の保健衛生につくした功績は大きい。
けったいな本を出してはいるが、名士だったみたいね。霊術家といったら怒られるかも(汗
『掛川市史 下』によれば、掛川病院は、明治33年10月には町営から山崎院長の自営の私立掛川病院となり、山崎の死去(大正15年2月)まで存続したという。中尾は16年間山にこもっていたというが、こもり始めた時期が、山崎が私立掛川病院長で、執筆活動をしていた明治36年〜43年とすれば、山崎の影響を受け、修行活動に入ったという可能性もあるが、裏付けはない。
なお、山崎の『催眠術及感応療法』(明治36年9月刊行)を、坪内逍遥が同年6月15日に読めるわけがないという話もある。わすもそう思う(笑
これは、坪内の日記の翻刻中「催眠術と[ママ]感応」の注として、校注者が「「催眠術及感応療法」が正題。山崎増造著。この年9月静岡県掛川町から発行された私家版。」としていたので、早稲田大学で明治36年6月以前に発行された同書(坪内旧蔵)を所蔵しており、それに基づきこのような注を付したのだろうと思っていたのだが、検索してもそのような書は所蔵していないみたいだ。どう解したらいいのだろうか。
わすが思いついたのは、これは富永勇『感応術及催眠術秘訣』(哲学書院、明治36年5月)が正題とした方がいいかもしれない。まあ、坪内の日記は、単に導入部として引用しただけで、掛川に山崎増造という、催眠術やら不老術関係の書物を刊行した人がいたということが重要なのだ。
ちなみに、富永勇という人物も実は掛川と関係があるみたいだ。『静岡県の医史と医家伝』(土屋重朗)には、
「富永勇(静岡鷹匠町)掛川病院外科、二十七年静岡市で開業」とある。掛川病院の関係者が同じ明治36年に似たような題名の書物を刊行しているのは不思議だ。やはり、「明治時代は謎だらけ!?」と言うべきか・・・