神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『『食道楽』の人 村井弦斎』余話(その3)


2 時ならぬ料理ブーム


坪内祐三、ならぬ坪内雄蔵が、催眠術書にハマっていた明治36年は、村井弦斎が報知新聞に食道楽を連載した記念すべき年でもあった。


「食道楽」の連載や単行本の発行による、「食道楽ブーム」については、黒岩さんの著書を読んでいただくとして、柴田宵曲もこのブームについて「料理ブーム」と題して言及していたので、引用しよう。*1


ブームなどといふ言葉はなかつたが、ブームらしい事実は昔もあつた。露伴の「珍撰会」の出た「文藝倶楽部」の増刊「ひと昔」は明治37年1月15日発行である。あの中には村井弦斎の「食道楽」を冷笑する口気が見えるが、それも観点を換へれば、料理ブームに対する一の現象と云へるかも知れぬ。同じ年の一月の「少年世界」には、江見水蔭が「少年料理」といふものを載せて居る。二組の兄妹がシチウと天麩羅を造つて友達をもてなすだけの筋であるが、少年読物としては料理法の実際に触れたところがある。今考へると、やはりブーム中の事柄になるらしい。


露伴の「珍撰会」というのは、黒岩さんの著書によれば、冒頭に「此頃評判の食心坊といふ小説」の噂が出てくるという。市島春城の日記中明治37年1月28日の条には、「露伴の「珍膳[ママ]会」を読み悶を遣る。」とあるが、残念ながら感想は書かれていない。


市島にしろ、坪内逍遥にしろ、『食道楽』は読まなかったのか、明治36年・37年の日記には登場しない。ただし、坪内の日記中明治37年3月14日の条には「弦斎の桜の御所一読」とある。黒岩さんの『村井弦斎』によれば、『桜の御所』は明治27年都新聞に連載、同年12月春陽堂から刊行。なぜ、明治37年になって読むのだろうか。『村井弦斎』の本文によれば、『桜の御所』は、この年の三月下旬の宮戸座を皮切りに三座で競演されたとあるが、何か関係があるのだろうか。

*1:『煉瓦塔』(昭和41年9月)所収、「柴田宵曲文集 第7巻」