神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

帝国図書館司書大田榮太郎って何者だ?(その2)


 くうざんさんの再度の教示により、帝国図書館司書にして、方言文献収集家大田が、富山県出身だとわかった。これで、天津教事件において、大田が竹内文献に富山弁が混入していることを証言したのであろうことは、ほぼ間違いないと思われる。


 ところで、竹内文献の信奉者たちは、富山弁が混入していることは、承知の上で信奉していた(笑)ようである。
 すなわち、『神代秘史資料集成解題』(大内義郷著)によれば、

本書の文体・用字に関しては、酒井本に
  漢字及仮名の誤り少なからず又越中の方言で書かれてある(酒井本序辞二頁)
と既に指摘されているように、疑問が多い。
(中略)
竹内文献研究者の大半も神代文字の原文を読んでいないと思われる。従って、原本が写本であることはもとより知らなかったと思われる。前田常蔵も恐らくそれを知らず明治期の写本を原本と思い違いをし狩野のところへ持っていたのだろう。
 従って、狩野が偽書と結論を下すにあたって使用した資料には問題がある。
(中略)
 もっとも、本書の文体に越中方言が混じっていることに関しては。越中方言が日本の古語を残しているという高畠康寿翁の主張(「地之巻」所収『神字起源解』参照)や、岩田大中も本書に頻繁に見えるカユウラクスが越中方言であることことを指摘している。また、中村茂治氏の語るところによれば、現在管見に入る写本にはないが、(中略)その姉をアンネヤ、妹をオオワといったという記事があったが、そのアンネヤ、オオワというのは、越中の方言として、今日まで残存しているという。


注:「酒井本」とは『神代秘史』和綴(袋綴)四巻本 酒井勝軍編集(昭和10年10月〜11年2月発行)のこと。高畠康寿は、大田と同日に証言した高畠康次郎のこと。大内氏によれば、高畠は明治10年富山市生まれ。天津教初代教祖と知り合ったのは大正12年のことという。岩田は、文久元年生まれ。高畠と同じ富山市出身で市会議員までつとめた地方の名士。竹内文献との出会いは昭和4年という。
 また、三村三郎の『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』によれば、中村は竹内文書研究の権威であると同時に、竹内家の古伝、神法を学んだ唯一人者。初代教祖から全幅的な信頼を受け、7年間も同家で研鑽修行したという。本職は、建具屋で、住所は富山市


 だんだん、「と学会」の人たちのブログみたい(そんなものがあるか知らないが)になってきた・・・