神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

再び都丸書店

 このようにして健康に恵まれているために、どこの古書展にもよく出かけているが、なかでも高円寺の古書展の時には朝早く眼がさめる。
 ここにきて、かならず立寄るのは高円寺駅そばの都丸書店だが、社会科学・経済学書などが豊富にある本店でなく、人文科学が多い支店の瀬見伊三郎君のところで、ここでくつろぐことがここ数年のならわしになっている。この店の棚を眺めていると何かしら欲しいものが見つかるので、これがたのしくてならない。

 品川力『本豪落第横丁』(青英舎、昭和59年2月)の「出隆 天国からのメッセージ」から

 『田中秀央 近代西洋学の黎明』(菅原憲二・飯塚一幸・西山伸編)から


   ところで佐野眞一『旅する巨人−宮本常一渋沢敬三』(中略)、
   『渋沢家三代』(中略)が明らかにしたところによれば、渋沢家は
   当時、嫡男篤二が妻敦子を家に置いて芸者玉蝶と同居、周囲の度重
   なる説得にも応じなかったために、1912年1月28日、栄一の
   決断で篤二の廃嫡方針を決め(中略)。佐野眞一は学寮での寄宿舎
   生活には触れずに、「敬三は人生で最も多感な十七歳から二十五歳
   までの八年間を、暗い母子家庭で過したことになる」(前掲『渋沢
   家三代』)としているが、これは不正確である。敬三らは日曜日の
   夜から土曜日の午前まで学寮で暮らし、土曜日の午後から日曜日の
   夕方まではそれぞれの家に帰った。(中略)渋沢親子が転々とした
   借家は、母子生活の場であったわけではない。(中略)本書には収録
   できなかったが、京都大学文書館寄託の田中秀央関係資料には、静枝
   (引用者注:田中の再婚相手)宛の渋沢敦子書簡が多数残っている。
   秀央宛書簡と合わせると、「渋沢家の重圧に終生苦しまなければなら
   ない悲劇の女性」(前掲『旅する巨人−宮本常一渋沢敬三』)と
   いう敦子像とは異なり、子育てと教育に心を配る姿や晩年の暮らし向き
   などを垣間見ることができるだろう。



(参考)引用文は、同書中「解説 2田中秀央の人的ネットワークと学問的
    業績」(飯塚一幸)」から。
    思いもかけないところで佐野の著作を「不正確」という記述に出会う。 

中公文庫『書物航游』(平澤一著)から


   Kが戦前、北京を訪れた時、故宮を案内した当時の留学生から、陳列
   されている物を平然とポケットに入れるので、同じ大学の長老教授
   でもあり、注意するわけにもいかず、ほとほと困惑したという話を
   聞いたことがあります。

 『長與又郎日記』(小高健編)から

   昭和13年7月2日

   紙上伝うる所によれば、清野は神護寺その他より多数の国宝級
   の経巻を盗出したる由なり。近来貴重なる経巻の蒐集に熱中し
   居たるは、先般京都に赴きし際承知、その一、二は自分も見たる
   ことあり。(中略)
   同氏亦、多年写経に熱中し、近頃の趣味は、古代殷の経書写経等
   に移りつつありしは確かなり。この事果して真ならば同氏の為には
   勿論、学界の為にも遺憾この上なきことなり。
   考古学の授業を濱田氏に代りて担当し居たる関係もあり、病中の
   濱田総長の心痛も察するに余りあり。(中略)
   大学に於て清野問題喧し。長谷部氏は心当りの行動を目撃したる
   ことありという。



(参考)清野謙次は、反町茂雄や岡茂雄にとっても、親しき人であったが、
    報道を知って、どう思ったであろうか?
    長與は当時東京帝国大学の総長。同じ、総長の立場としても濱田
    京都帝大総長の心痛を思いやったに違いない。


    島田翰(シマダ・カン)の書盗?については、「書物蔵」の3月
    17日参照。

    「編集会議」2月号に中野書店登場。
    「出版ニュース」1月上・中旬合併号の「今年の執筆予定・アンケ
     ート特集(178氏)」で、紀田順一郎氏、黒岩比佐子氏、井上章一氏、
     小谷野敦氏、出久根達郎氏、呉智英氏、加藤典洋氏、海野弘氏、
     長山靖生氏などの来年の動きが多少分かる。
    

『退読書歴』(柳田國男著)から


   日本に唯一つの国立図書館、しかも帝都の大公園と併存する図書館
   の中にも、駆除し難い悪者が折々潜入し、珍書を借りて蔵書印
   を切とったり、又アート版の一枚を破って持ち帰ったりする。
   それは国人共同の恥でもあり、同時に学問其ものの不名誉でも
   あるが、之を防ぐの方策が他に無いからとして、貸出し中止の
   窮手段は誰も講じようとはせぬ。

岩波新書『宣教師ニコライと明治日本』(中村健之介著)から

  「ケーベル教授が来た。かれはロシアからアウグスチヌス、
  ジュコフスキーその他の本を取り寄せている。ところで、かれ
  の話によれば、三年前大学に着任したときは、学生たちはスペ
  ンサーとダーウィンに夢中になっていたのだが、いまはスペンサー
  やダーウィンは馬鹿にするようになりつつあるという。その頃は、
  学生たちに何かキリスト教に近いものの講義をするなどというこ
  とは、考えることもできなかった。ところが今回は、キリスト教
  哲学に極めて近い中世哲学史の講義をしたという。つまりアウグス
  チヌスその他についてだ。学生たちは強い興味を示して聞いていた   
  とのことだ。(後略)」(1896年7月28日)


(参考)ケーベルはドイツ系ロシア人で、ロシア正教徒だったという
    (1899年にカトリックに改宗)。
    ケーベルは東京帝国大学の哲学の教師。教え子に田中秀央が
    いる。田中は、寿岳文章の師。
    引用文は、ニコライの日記の記述。

    「東京大学総合図書館」の展示で「東大黎明期の学生たち」を見たが、
    進化論ブームが一つのテーマであった。