ところで佐野眞一『旅する巨人−宮本常一と渋沢敬三』(中略)、
『渋沢家三代』(中略)が明らかにしたところによれば、渋沢家は
当時、嫡男篤二が妻敦子を家に置いて芸者玉蝶と同居、周囲の度重
なる説得にも応じなかったために、1912年1月28日、栄一の
決断で篤二の廃嫡方針を決め(中略)。佐野眞一は学寮での寄宿舎
生活には触れずに、「敬三は人生で最も多感な十七歳から二十五歳
までの八年間を、暗い母子家庭で過したことになる」(前掲『渋沢
家三代』)としているが、これは不正確である。敬三らは日曜日の
夜から土曜日の午前まで学寮で暮らし、土曜日の午後から日曜日の
夕方まではそれぞれの家に帰った。(中略)渋沢親子が転々とした
借家は、母子生活の場であったわけではない。(中略)本書には収録
できなかったが、京都大学文書館寄託の田中秀央関係資料には、静枝
(引用者注:田中の再婚相手)宛の渋沢敦子書簡が多数残っている。
秀央宛書簡と合わせると、「渋沢家の重圧に終生苦しまなければなら
ない悲劇の女性」(前掲『旅する巨人−宮本常一と渋沢敬三』)と
いう敦子像とは異なり、子育てと教育に心を配る姿や晩年の暮らし向き
などを垣間見ることができるだろう。
(参考)引用文は、同書中「解説 2田中秀央の人的ネットワークと学問的
業績」(飯塚一幸)」から。
思いもかけないところで佐野の著作を「不正確」という記述に出会う。