神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

古本屋だった川柳家麻生路郎

『麻生路郎読本』(川柳塔社、平成22年9月)を読む機会があった。川柳家として著名な人らしいが、知らなかった。年譜を見ると、古本屋葵書店を経営するなど面白い経歴だったので、一部を抜き書きしてみよう。

明治21年7月 広島県尾道市生。本名幸二郎
43年3月 大阪高商本科を卒業
大正2年 『番傘』2号(5月15日発行)から参加
3年3月 河盛ヨシノ(21歳)がプール女学校(川口外国人居留地にあった。現・プール学院大学)英語専修科を卒業
同年4月 ヨシノと挙式
4年 大阪市北区上福島一丁目(現・福島区福島六丁目)で古本屋(葵書店)を開く。
6年 葭乃(ヨシノ)が『婦女世界』(大阪市西区)の婦人記者になった。
7年 『株式会社桃谷順天堂創業百年記念史』によると、この年に「川柳の岸本水府、麻生路郎、広告部に文案家として入社」とある。
8年 古本屋を廃業
同年8月 長男ロンドン生まれる。ロンドンという名は、ジャック・ロンドンからとった。
11年10月 次男アート誕生
13年2月 『川柳雑誌』創刊号を発刊
昭和3年末 雑誌印刷費を捻出するため「広告売文社・大阪市東区農人橋二丁目七番地(現・中央区農人橋)」(昭和4年・大阪文案社と改称)を興す。
7年3月 純喫茶キング開店(大阪市西成区玉出本通三丁目)
8年8月 『喫茶新聞』毎月一回発行。大阪府料理飲食業組合連合会役員や玉出同業組合の副組合長をしている関係で洋食飲食店の繁栄機関[誌?]として発行された。
9年8月18日、20日の大阪時事新報家庭欄へ、モダン・実話怪談「図書館の幽霊」「高師の浜の幽霊」執筆
10年3月 大阪時事新報広告副部長として入社
同年 『川柳雑誌』12月号「柳界展望」に「『古本と古本屋』*110、11月号に、『私の古本屋時代』を執筆」とある。
12年9月 キング喫茶店廃業
18年 『川柳雑誌』12月号が終刊号となる。
21年 戦後、朝日ビルの三階に設置された検閲室に派遣された検閲官がハワイの門下生である前山北海・古川魔花麗だった。二人の斡旋で、8月『川柳雑誌』を再刊
30年10月8日 BKから「古本」の選評を放送
31年6月24日 関西短詩文学連盟結成、初代理事長に就任。[常任理事の中に小野十三郎。理事の中に安西冬衛・岸本水府・前川佐美雄・西東三鬼・竹中郁]
40年7月 死去
同年10月 『川柳雑誌』を『川柳塔』と改名

古本屋の他に、喫茶店を経営したり、「図書館の幽霊」なる怪談を執筆したり、妻が『婦女世界』の記者だったり。この人、面白い。
本書には、夫妻の川柳も載っているので、古本関係を紹介しておこう。
路郎の句は、

古本を売つて二階の暇乞ひ
古本屋でもやりますと帰りゆく

中々どういう状況を表した句かわからない。
葭乃の句は、

古本屋自論を吐いて売りつける
読むだけの客と見ぬいた古本屋
古本屋不承不精に値を申し

最後の句は、店頭に出したものの、本当は売りたくない本で、値付けもしてなかったが、客に見つけられ値段を聞かれたので、仕方なく値段を付けたということだろうか。

*1:富樫栄治の一輪草舎書屋(大阪市西成区)が出していた雑誌

俳人野田別天楼宛多田莎平の葉書を拾う

天神さんで拾った野田別天楼(武庫郡御影報徳商業学校)宛の多田莎平(尼崎市営住宅)の絵葉書。野田が学校の先生らしいことと名前が面白いので買ってみた。報徳商業学校は西宮にある報徳学園高等学校の前身。消印は年不明だが、8月25日。「郵便はかき」で仕切線は2分の1、切手は田沢切手の1銭5厘。写真のキャプションは、「(赤穂三崎名所)社頭ノ奇岩ト唐船島ノ遠望 (不許複製)翠浦堂蔵版」。
野田は未知の人物だったが、『岡山県歴史人物事典』(山陽新聞社、平成6年10月)によると、

野田別天楼 俳人・教育者
明治2年5月24日 岡山県邑久郡磯上村生、本名要吉
俳句は明治22年頃から始め、子規は「明治29年の俳句界」で別天楼の作品を秀整と評した。
大正9年 第一句集『雁来紅』上梓
大正11年 報徳商業学校*1校長
昭和5年俳人真蹟全集』「談林時代」を担当、俳文学者としての活躍も注目された。
昭和19年9月26日 六甲山麓の自宅で没、享年76

岡山県出身だが、兵庫県で活躍した俳人のようだ。また、『報徳学園五十年小史』(報徳学園昭和36年10月)の「学校沿革」によれば、

大正11年12月 三代目校長野田要吉(別天楼)就任
13年3月 私立報徳商業学校と改称
昭和7年3月 校長辞任
同年4月 学校は神戸市灘区青谷町に移転

これからいくと、この葉書は大正13年3月から昭和6年8月までに投函された葉書と推測できる。
一方、多田の方は住友陽文「知識人と娯楽ーー多田莎平と萱野三平顕彰運動ーー」『地域史研究』21巻2号(尼崎市立地域研究史料館、平成4年2月)によると、

明治22年 兵庫県揖保郡龍野町東本願寺派円光寺多田実了の長男として生まれる。
赤穂尋常小学校卒業後、龍野高等小学校、龍野中学校へ進学。中学校を中退後、尾崎行雄を会長とする大日本国民中学校(通信教育)に入学。
尋常小学校や実業補習学校の訓導を務め、一旦民間会社に就職するが、尼崎市で教壇に復帰。尼崎第二尋常小学校などで教鞭を執りながら、俳句創作に一層熱意を燃やす。昭和初期に『ちゝり』『コスモス』『二つの竹』の句誌を創刊。教壇を降りた後尼崎市立図書館長。

尼崎市立図書館長の件については、『50年のあゆみーー年表と統計ーー』(尼崎市立図書館、昭和46年3月)を見ると、本名の多田喜久二で昭和9年4月から12年2月まで館長事務取扱として出ていた。在任中の出来事としては、11年9月に館員の親睦機関として尚和会が設立されている。俳人実は図書館長だったわけだが、短期間地方の図書館長を務めたぐらいでは新刊の『図書館人物事典』(日外アソシエーツ)には出てこんだろうなあ。『初暦:多田莎平遺句集』(多田文子、平成4年)などを見れば、多田のより詳しい経歴がわかるかもしれない。
葉書の文面は、全部は判読できず、久方ぶりに赤穂を訪問したこと、江山社で野田の講話を聞いたこと、神戸の放光庵で野田の講話を聞こうと思って行ったが来会せず残念だったことなどが書かれているようだ。なお、野田宛葉書は他に4枚入手している。
俳人ということで、余りわし向きのネタは出て来なかったが、『南木芳太郎日記三ーー大阪郷土研究の先覚者ーー』(大阪市史料調査会、平成26年8月)を読んでると驚いた。

(昭和十二年)
一月十一日
(略)三時十五分前、多田莎平氏に遇ふ。別天楼・虚明・来布君等に逢ふ。多田氏と一緒にて車中にて、三平の原稿に就て語合ひ天下茶屋にて別かれる。(略)
(昭和十三年)
六月二十七日
(略)
野田別天楼氏及多田莎平氏にも手紙認める。
(略)

「三平の原稿」とは、南木が編輯兼発行人を務めた『上方』75号(創元社昭和12年3月)に載った多田の「「萱野三平」を一読して」の原稿と思われる。わしが興味を持つ人物はみんな繋がって来るなあ。

図書館人物事典

図書館人物事典

*1:正しくは、当時は報徳実業学校

帝国図書館の癪に障る下足番

「「図書館文学」傑作撰」と帯にある日比嘉高編『図書館情調』(皓星社、平成29年6月)に菊池寛の「出世」『新潮』32巻1号、大正9年1月が収録されている。上野の図書館(帝国図書館のこと)を久し振りに訪問し、そこにいた二人の下足番を回想する小説である。

二人は恐ろしく無口であった。下足を預ける閲覧者に対しても、殆ど口を利かなかった。(略)
二人はまた極端に、利己的であるように、譲吉には思われた。二人は、入場者を一人隔きに引き受けて居るようであった。(略)彼等は、下足の仕事を正確に二等分して、各自の配分の外は、少しでも他人の仕事をすることを拒んだ。(略)毎日々々他人の下駄をいじると云う、単調な生活を繰り返して行ったならば、何んな人間でも、あの二人の爺のように、意地悪に無口に、利己的になるのは当然なことだと思った。何時まで、あんな仕事をして居るのだろう。恐らく死ぬまで続くに違いない。

上記の他、「出世」では、主人公の譲吉が汚い草履を履いて行くと、下足札をくれないので喧嘩をしたエピソードも書かれている。
菊池の「半自叙伝」を見ると、明治41年上京した翌日に上野図書館へ行ったとか、明治大学を退学してから、昼間は上野図書館大橋図書館へ毎日通ったことが書かれている。だから、菊池が「出世」に書いた下足番はある程度事実に即したものだろうと思っていた。それが、荻原井泉水『井泉水日記青春篇』下巻(筑摩書房、平成15年12月)を読んでいたらある程度裏付けられた。

(明治三六年)五月二一日 木 雨
(略)帝国図書館ニ逃ゲ行キテ読ミ且ツ調ベタリ。下足ノ老爺ハイツモイツモ癪ニサハル奴ニテ出納係ノ河合トイフ男トハ一寸喧嘩ヲシタリ。小人等ハ困ツタモノナリ[。]図書館ニ傭ハレテ勅任官ニデモナツタツモリデ牛耳ルノガアキレカヘル到リナリ。(略)

下足の爺さんはいつも癪に障る奴だったらしい。ただ、菊池の小説では、「譲吉が高等学校に居た頃から、あの暗い地下室に頑張って居る爺」とあり、菊池の第一高等学校入学は明治43年なので、必ずしも同一人物とは限らない。しかし、井泉水の日記により、帝国図書館の下足番の横柄な態度が裏付けられるようだ。
菊池の「出世」では、閲覧券売場の係員に「出世」した元下足番と再会して、物語は終わる。この下足番という仕事だが、「帝国図書館に土足で入館できるようになった年」で紹介したように、昭和7年には土足で入館できるようになったので、その頃も閲覧者の癪に障っていたかもしれない下足番もお役御免になったわけである。

図書館情調 (シリーズ紙礫9)

図書館情調 (シリーズ紙礫9)

日本喫茶店史の重要史料『井泉水日記青春篇』(筑摩書房)

グーグルブックスで「帝国図書館 満員」を検索して見つけた『井泉水日記青春篇』上下巻(筑摩書房、平成15年11・12月)。まだ上巻しか読んでいないが、久しぶりにゾクゾクするような日記だった。次のような点が色々使えそうな日記である。
・話には聞いていた戦前のインテリ青年の美少年志向が赤裸々に記録されている。
・個人の書棚や本箱に関する記述がある。これについては、書物蔵氏が『文献継承』(金沢文圃閣)で本日記も使って日本の近代本棚史を書くらしい。
・書店で雑誌の新刊を買っているので、発売日(又はそれに近い日)が確認できる。
明治34年9月数え18歳で第一高等学校に入る前から、新橋駅前のコーヒー店や銀座の竹川ビアホールなどに出入りしていたが、一高入学後頻繁にコーヒー店やミルクホールに出入りし、店名や飲食物について記載している。女給を置いた本格的なカフェー登場以前の明治30年代の喫茶店については、あまり記録がないと思われるので、貴重な史料である。斎藤光先生や林哲夫氏も時間があれば読んでみてほしい。幾つか引用しておこう。

(明治三五年)一〇月二二日 水 晴
(略)七時半遂ニ門ヲ出デ本郷カフヱーニ到リ、ビステキ、紅茶、コヒー、ケーキ二三ヲ食ヒテ八時余カヘレリ。(略)

やあ、日本で初めてカフェーを名乗った*1本郷カフェーが出てきましたね。寺田寅彦もここを使った*2が、寺田と同時期に井泉水も使っていたことになる。もう一つ別のカフェーが出てきたのにはたまげた。

(明治三五年)一〇月二四日 金 曇
(略)寮ヲ出ヅ。新設新井コヒー店ニ到リ、カフェートヲムレツケーキトヲ食フ。ヲムレツケーキナルモノヽ獰猛ナルニハ驚キタリ。(略)
一一月一七日 月 晴
(略)新井カフヱーニヨリ、チョコレートニ菓子ナド食ヒテカヘル。(略)

正式名称が「新井コヒー店」か「新井カフヱー」かはっきりしないが、本郷カフェーと同時期にカフェーを名乗っている店があったとすれば驚くべき事実だ。本郷カフェーを真似したものか、はたまた本郷カフェーより先行してカフェーを名乗っていたか。
もう一つ。

(明治三五年)一一月一日 土 雨
(略)四時半ヨリ寮ヲ出デ淀見軒ヲ訪フ。今夜ハ該店ガ開店一周年ノ祝タル開業式ナリトテ、内ニ菊花ナド飾付ケ景気ヲ添ヘタリ。ビステキ、タルガキ、コヒー、ケーキナド食ヒコゝヲ出ヅ。景品ヲクレタリ。

淀見軒は、林氏の『喫茶店の時代』(編集工房ノア、平成14年2月)に明治34年相馬愛蔵が東大前にコーヒー店を計画した時、青木堂が既に存在した上に、淀見軒が出店したため、代わりにパン屋を開店したとして出てくるミルクホール。これにより、確かに34年創業と確認できる。
井泉水が最もよく利用したのが長仙堂*3で、次に梅月。その他、新規開店の「戸上コヒー店」(明治34年10月23日)、同じく新規開店の「コヒー店ヲーアシス」(同年12月7日)、「パラダイス」(同日)、青木堂(35年2月4日)、店名と思われるが「obst(ヲブスト)」(同年6月2日など)、「セコンドパラダイス」(同年11月18日)も出てくる。『第二回東京市統計年表』(東京市役所庶務課、明治37年10月)によると、35年12月31日現在の本郷区内の「喫茶店」は2軒のみ。井泉水が行った本郷の一高周辺のコーヒー店がすべて本郷区内とは限らないが、どうも斎藤先生が論文「ジャンル「カフェー」の成立と普及(1)」『京都精華大学研究紀要』39号で推測していたように同年表の「喫茶店」は遊楽地での茶屋・茶店的なものに限定されていたことがうかがわれる。
なお、井泉水は日記の35年11月11日の条によれば、岡野知十の『半面』2巻1号に「コーヒー店」を寄稿したり、同月29日の条によれば、寮の部屋の『漫録』に「近キコヒー店ノ類十余種ノ評判記」を書いているようだ。
戦前の喫茶店・カフェーを調べる場合、林氏の前掲書の店名索引を参考にさせていただくが、網羅的なものではない。誰か『日本喫茶店大事典』を作らないかね。

*1:カフェー発祥の地としての本郷(その2)」参照

*2:寺田寅彦と謎の本郷カフエー」参照。

*3:コーヒーの他牛乳を飲んだり、新聞・雑誌を読んだりしているのでミルクホールか。

帝国図書館と美少年の妖しい関係

お盆は皆さん実家に帰るか、旅行に行くか、はたまた古本市に行く人ばかりかと思いきや、意外に国会図書館に行く人が多いらしい。地方から調査に行く研究者や学生だろうか。さて、国会図書館の前身の帝国図書館を若き日の荻原井泉水が利用していた。そこで、ある日美少年に出会ったようだ。『井泉水日記青春篇』上巻(筑摩書房、平成15年11月)によれば、

(明治三十四年)七月十八日 晴
(略)結果のわかるは午後よりなれば午前のうちは帝国図書館にbookwormとならむと思ひしが空合さだかならず、(略)家をいづ、九時ごろなり。馬車にて上野にいたり直ちに図書館に入る。予の占めたる椅子の斜め前には白がすりの筒袖をみぢかく着まだ肩上げのある美少年あり。十三四にや中学の二年位とみえ『博物示教』などいふ書を借出してよみをりたるがゆかしく又いはむかたなくうつくしきに思はず折々はながめつ。(略)一時半図書館を出で谷中のかたへ高等学校にいたらむとて歩をはこぶ。(略)

数え18歳の荻原にとって、この日は第一高等学校入学試験の合格発表の日で美少年に見とれている場合ではないと思うが、試験の結果はめでたく合格。一高の寮では岩波茂雄と同室となったという。
戦前図書館で出会った美少年ならぬ美少女をナンパするということはあったと思うが、今のところそのような記述のある日記には出会っていない。

京都帝国大学附属図書館の金井浩は実在したか

福田與『満天の星を仰ぎて:自伝』(福田図書室、昭和61年10月)に京大図書館の金井浩という人物が出てくる。

ところが、私のうちはこの頃から妙に来客が多くなってきました。まず宮崎童安先生及び高田集蔵先生、そして先生をめぐる多くの知友が京都を訪れる度に必ず私どもの家を訪われ、一夜なり二夜なり木賃宿よろしく皆で雑魚寝をいたしました。
まず第一の客は、大阪は十三の漆屋さんの長船林三郎氏でした。(略)また家が近いので度々来られたのは京大図書館づとめの金井浩さんでした。稀に見る真面目な求道者で江渡狄嶺翁に私淑しておられ、有馬良治さんとも仲良しでした。(略)

小原與は京都市立崇仁小学校勤務中の昭和2年に宮崎童安を知り、4年11月宮崎の媒酌で福田武雄と結婚。武雄は6年頃四条堀川東入る北側の本屋を譲り受け、古本屋を開店し、父親を店番にした。與は7年1月から8年3月まで京都府聾学校に勤務、同年9月高田と初対面。金井が福田家に出入りした時期ははっきりしないが、4年の與の結婚披露宴に出席し、6年の江渡の入洛時には、北白川の下宿で江渡と與と夕食を共にしている。また、5年12月から板橋行蔵、金井、長船、與の4人で雑誌『草の葉』を発行している。
この金井が京都帝国大学附属図書館の職員だったのかと、『京都大学附属図書館六十年史』(京都大学附属図書館、昭和36年3月)の職員一覧を見ても見当たらない。『京都帝国大学一覧』を見ても該当者なし。昭和4年から8年までの時期で金井浩というと、『郷土科学』14号(刀江書院、昭和6年12月)の「山上村を訪ふの記」などを書いた人物がいるが、肩書きは東京商大教授・文部省社会教育官である。この人は、『昭和人名辞典』1巻によれば、

金井浩 兵庫県人。明治19年2月14日生。大正4年東京高商附属教員養成所卒。浜松・岡山各商業教諭。熊本・静岡各商業校長。文部省社会教育官等歴任。昭和7年東京府立第一商業校長。曩に東京商大専門部教授を兼任。

與のいう「京大図書館づとめ」の金井とは別人のようだ。はてさて、京大図書館づとめの金井とはいったい何者だったのだろうか。

上野の図書館は今日も満員だった(´・ω・`)

閉鎖中のブログ「書物蔵」2016年11月23日のエントリーは「帝国図書館が満員になり始めたのは、1907年前後から」。そこでは、『書物往来』3年2号、大正15年2月掲載の「帝国図書館問題」(無署名)が引用されている。

帝国図書館の満員続きは昨今始まつた事ではない[。]遠く大正の初年若くは明治四十年前後からの現象であつたと記憶してゐる。特に震災後は一層酷い状態であるらしい。

明治39年の日記中に上野の帝国図書館に行ったが満員だったという記述があるので紹介しておこう。
山崎國紀編『森鴎外・母の日記』(三一書房、昭和60年11月)では、

(明治三十九年四月)
四日 ひる頃、篤次郎出かけたる序故、上野の図書館に行<く>と申<し>て寄る。一緒<処>にひるめしを済し、自身も潤三郎と向島の墓参りに行<く>。上の[ママ]迄連立(遠)<ち>しに図書館満員にて入<る>事出来ず。それ故、篤次郎も向島に行<く>。(略)
(注)<>は編者による補記、()は編者により語句修正がある場合の原文

既に紹介した*1ものだが、『伊良子清白全集』2巻(岩波書店、平成15年6月)には、

(明治三十九年)
一月十二日 金曜 帰途博文館の図書館にいたり家事衛生に関する書籍をよむ 上野にいたりたれども満員にて入ること能はざりき

「上野」は上野にあった帝国図書館と見てよいだろう。ただし、現在国際子ども図書館になっている新館はこの年の3月開館なので、旧館ということになる。
大正期では、「柴田宵曲翁日録抄」がある。『日本古書通信』昭和56年10月号から57年3月号までに掲載された分だけ見るが、

(大正十年)
七月十七日 晴
上野を廻りて帰るに、図書館満員と見えたり。(略)
十月十七日 晴
(略)図書館に赴く。特別満員なれば札とりおきて上野歩く。
十一時すぎ漸く館に入れり。(略)
(大正十一年)
一月十六日 晴
図書館へ行きしが満員なればやむ。(略)
二月十四日 晴
図書館に寄らむとて出でしが、あまりに人待ちゐたればやむ。(略)
三月十二日 晴
日曜なれど例会なれば行く。(略)五時すぎかへる。図書館へ行きしが七時を少し過ぎて満員なり。昨日は八時頃まで満員なりしと云に、驚き去る。(略)
六月二十八日 雨 曇
行くさ図書館による。やゝこみ居る。(略)
七月五日 曇
行くさ図書館に寄る。特別満員にて入れず。尋常を買ひて入る。(略)
七月二十三日 晴 (略)
夕飯後図書館に行く。回数券日附印の不明なるを和綴の帳面しらべてよろしと云。特別回数券買ふもの存外少なきに似たり。(略)
十二月二日 晴
行くさ図書館に来るに特別満員なり。尋常に入る。本受取りてのち別室に行きしも一の空席を見出す能はず。二階にもどりて窓によりてよむ。(略)
(大正十二年)
一月二十一日 晴 (略)
四時過図書館に赴く。特別満員なれば、本郷を一廻りし来りて入る。(略)
六月十七日 雨
四時近く出でゝ図書館に行く。入口に黒板出で居ればこの頃満員になる時ありと見えたり。(略)
七月二日 曇後晴
二時頃より図書館に赴く。満員にて少しく待たされたり。(略)
七月十二日 晴 曇 (略)
一時頃より図書館に赴く。思ひしに違ひて満員にもあらず。(略)

柴田はこの前後*2頻繁に帝国図書館と思われる「図書館」に行っているが、上記以外は満員ではない。大正12年9月の震災以降「酷い状態」になったのか確認できないのが残念である。ただし、柴田は特別求覧券を使用していたので、尋常求覧券を使う一般人にとっての満員状況を見るのには適さないかもしれない。せっかく割高の特別求覧券を持っていても特別閲覧室が満員でわざわざ尋常求覧券を買って入館するところは非常に面白い。帝国図書館規則を読んでいるだけでは、想像できない事態だね。
このほかグーグルブックスで「上野の図書館 満員」で検索すると幾つか見つかる。毎年の満員になった日数の記録が残っていれば一番良いがそれは期待できないので、日記などで拾っていくのも一つの手段かもしれない。
追記:『近代日本図書館の歩み』本篇(日本図書館協会、平成5年12月)によると、明治39年度の『帝国図書館年報』に「本年度ノ終ニ於テハ閲覧人非常ニ増加シ入館ヲ得ズ空ク帰途ニ就ク者多クシテ其歎声絶エザルヲ以テ従来事務所ニ宛テタル木造仮建ノ室ヲ臨時尋常閲覧室ニ充用シ館外ニ溢ルル閲覧者ノ幾分ヲ収容シ稍ヤ歎声ヲ減スルヲ得タリ」とある。

*1:伊良子清白が羊頭苦肉と酷評した大阪府立中之島図書館

*2:ただし、大正12年8月9日以降昭和3年10月28日までの日記は残っていない。