神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

上田貞次郎が作った『南葵文庫洋書目録』は今いずこ?

『上田貞次郎日記ーー明治二十五年ー三十七年ーー』(上田貞次郎日記刊行会、昭和40年5月)を見てたら図書館ネタ。もっとも、既に言及した論文はありそうだ。

(明治三十五年四月)
二十七日 南葵文庫にて学生招待会(酔)(略)
(同年七月)
十五日 火 南葵文庫にて徳川従四位様に面会。(略)
十九日 土 南葵文庫にて論文訂正。
◎十五日 南葵文庫の洋書目編纂を依頼さる。(略)
◎十八日より毎日同所(南葵文庫)行。
(同年八月)
十七日 日 文庫目録調整。(略)
十八日 月 南葵文庫。自宅にて書目調製。(略)
(同年九月)
三日 水 南葵文庫目録調製。(略)
(同年十二月)
二十四日 水 (略)
南葵文庫より金十五円を贈らる。

年譜によると、上田は明治12年5月12日紀州徳川侯邸内で上田章の次男として出生(章は通称専太郎で、紀州家の家扶)。35年7月に東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業し、9月に同校講師となっている。南葵文庫は同年4月徳川頼倫が自邸に開館した私設図書館。
上田が作成した「南葵文庫の洋書目」は印刷されたのかどうか不明。東京大学総合図書館の「南葵文庫」にも無いようだ。グーグルブックスによると、『明治記念新潟県立図書館蔵書分類目録』(大正7年)に『南葵文庫洋書目録(大正7年)』が記載されているようだが、この大正7年版も現存しないようだ。はてさて、『南葵文庫洋書目録』はどこの図書館にも残ってないようだが、図書館本のコレクターで所蔵している人が日本のどこかに存在するかもしれない。

寺町今出川の宮崎書店が始めた平安巡回文庫

伊良子清白の日記*1にはもう一つ図書館ネタかと思われるものがある。

(大正七年)
十二月二十四日 火曜(略)今出川寺町の宮崎書籍店にいたり平安巡回文庫のことを尋ね(略)
十二月二十八日 土曜(略)平安巡回文庫より左記の雑誌を閲覧することゝす 日本及日本人、中央公論、太陽、文庫世界、婦人の友、女の世界、ホトヽギス、早稲田文学、白樺(略)

「巡回文庫」を図書館問題研究会編『図書館用語辞典』(角川書店、昭和57年10月)で引くと、「図書館が数十冊の図書をセットにして主に団体やグループに一定期間貸出し、閲覧または個人貸出しするもの」とある。おっ、「京都の図書館が巡回文庫をやっていたか、関西文脈の会ネタかも」と思ってしまった。
ところが、念のため『京都書肆変遷史』で宮崎書店の項を見ると、平安巡回文庫は宮崎書店が始めたものであった。同書から要約すると、

創業者:宮崎則忠
創業年:明治42年
創業地:上京区寺町通今出川下ル
宮崎は代々金沢前田藩に仕える士族の家柄で、祖父の代に寺に入籍。成長するにつれ出家を嫌い、入洛。
明治42年寺町通今出川下ルにて雑誌の回覧(平安巡回文庫)を始め、古書も取り扱ったのが嚆矢の様である。大正14年に幹事、昭和6年から同22年までの長きにわたり評議員、副組長、相談役等を歴任。昭和15年「紀元二千六百年奉祝記念」として「二宮尊徳の胸像」の建設が組合で決定され、委員長に就任。胸像は同年12月府立図書館前に完成。昭和24年5月没。

客が店に行き本を借り、返す時も店に行く貸本屋とは逆に、平安巡回文庫の場合は書店の方が客の家に色々な雑誌を持って行ってそこから好きな雑誌を借りてもらい、一定期間が過ぎたら回収に行くという形態なのだろう。前掲辞典によると、日本における巡回文庫は明治35年佐野友三郎秋田県立図書館で導入し、翌年移った山口県立図書館で本格的に行い、のちに全国的に広まったという。図書館が始めた巡回文庫を書店も真似したということだろう。明治末に始めて大正7年の段階でも続いていたということは、需要が相当あったということになる。伊良子が借りた誌名を見ると、中々渋い雑誌も揃えていたようだね。
余談だが、二宮尊徳の胸像って今も京都府立図書館前にあるが、宮崎書店の店主が中心となって京都書籍雑誌商組合が設置した物だったのね。知らなんだー。

*1:『伊良子清白全集』2巻(岩波書店、平成15年6月)

伊良子清白が羊頭狗肉と酷評した大阪府立中之島図書館

『図書』(岩波書店)6月号に伊良子清白の孫伊良子序氏が「詩人清白の流離と純化ーー生誕百四十年と新出日記ーー」を書いておられる。それによると、『伊良子清白全集』2巻には25年分の日記のうち8年分が収録されたが、その後新たに8年分が発見され、解読中であるという。また、清白の日記、創作ノート、蔵書などは、鳥取県立図書館に寄贈し、現在、資料整理、劣化を防ぐ特殊処理、データベース作成などが行われ、「伊良子清白アーカイブ」が今後の研究の中心的役割を担うともあった。文学全集の日記篇はあらかた読んだつもりだったが、清白の日記は読んでなかったので、あわてて全集の日記を読んでみた。そうすると、図書館ネタがあったので報告。まず明治37年に開館した大阪図書館(39年に大阪府立図書館に改称。現大阪府中之島図書館)。

(明治三十八年)
一月十五日 日曜 午前はじめて府立図書館に行く 蔵書の不備なるは其建築の美麗なるに比して羊頭をかけて狗肉を売るの譏なきにあらず 「新楽劇論」((略)流石に春のや先生の識論と感服)竹柏園集(この内にて大塚楠緒子刀自の詩歌心にとまれり)及び萩の家遺稿の三冊*1をよむ 午後堂島に商品陳列所を観覧す(略)

当時伊良子は帝国生命保険大阪支社に勤めていた。また、37年度の同図書館の蔵書数は3万7千冊*2。伊良子は32年に京都医学校(現京都府医大)を卒業後、日本赤十字社病院に勤めていたから、帝国図書館大橋図書館を利用したことがあって、それらと大阪図書館を比べたのかもしれないが、蔵書数に不満があったのだろうか。
他の図書館も出てくるので紹介すると、

(明治三十八年)
十二月十七日 日曜 博文館の図書館にいたりいろ/\の物を見る、新年勅題詠進の式をも女鑑の合本よりうつしとる(略)
(明治三十九年)
一月十二日 金曜 帰途博文館の図書館にいたり家事衛生に関する書籍をよむ 上野にいたりたれども満員にて入ること能はざりき
三月十二日 月曜 研究のため大橋図書館に到る 満員にてやむなく教育図書館にいたる 別によき書物もなく且つ風強くして身内寒ければ急ぎ帰る 詩集の手入をなす
四月五日 木曜 (略)夜帝国図書館にいたり調べ物をなす(略)
(大正七年)
三月十六日 土曜 (略)三時より図書館にいたりキリスト教の書物や歌の本などを見る(略)
六月八日 土曜 (略)夜京極より図書館にいたり丸太町古本やを素見してかへる
[欄外]図書館は意外に貧弱也、何もかも台北を見た目にはあまり驚かるゝことなし 台湾の方が実際はよきなり

「博文館の図書館」は大橋図書館、「上野」は上野にあった帝国図書館。「教育図書館」は書物蔵氏の御教示によると大日本教育会附属書籍館(現千代田図書館)か。最後に出てくる京都府立図書館は明治42年開館。武田五一設計の建物の外観は今も残っていて立派だと思うが、伊良子は43年5月から大正7年3月まで台湾総督府に勤めていたので台湾総督府図書館と比較して感想を述べているのだろう。戦前の図書館について、関係者ではない一般利用者による忌憚のない感想が記録されていて貴重な資料である。全集に未収録の残りの日記も早く公開されるよう期待しております。

伊良子清白全集〈第2巻〉散文篇

伊良子清白全集〈第2巻〉散文篇

*1:この3冊は現在も中之島図書館と中央図書館が所蔵しているようだ。

*2:大阪府立図書館五十年史略』(昭和28年11月)による。ちなみに家蔵の同書には「大阪府立図書館児童室図書」のスタンプが押されている。なお、『上野図書館八十年略史』(上野図書館、昭和28年3月)によれば帝国図書館明治38年度末現在の蔵書数は42万3千冊弱、『大橋図書館四十年史』(博文館、昭和17年9月)によれば大橋図書館明治35年度末現在の蔵書数は4万4千冊強である。

昭和三年全国古本屋・見立番付

読売新聞昭和3年7月14日朝刊に「昭和三年全国古本屋・見立番付ーー公募入選佳作(但本社図書室校訂)ーー」が載っている。東方は、

横綱 東京 文求堂
大関 東京 浅倉屋
張出大関 東京 村口
小結 東京 琳琅閣
前頭 東京 南陽堂、東京 一誠堂、東京 巌松堂、東京 北沢、東京 松村、東京 源泉堂、東京 明治堂、東京 玉英堂ほか

など17の古本屋。
西方は、

横綱 大阪 鹿田
大関 京都 細川
張出大関 大阪 荒木
関脇 京都 竹苞楼
小結 名古屋 松本
前頭 大阪 梁江堂、名古屋 其中堂、京都 進文堂、京都 丸三、京都 杉田、長崎 共益館、大阪 高尾、京都 其中堂、大阪 天牛、京都 国井ほか

など17の古本屋。年寄は東京 丸善、京都 聖華房ほか。行司は帝国図書館東洋文庫大橋図書館。この番付を応募した人は相当の古本者だと思うが、読売新聞でこの番付に対して「新番付評」を書いた「行司覆面子」もかなりの古本者だったと思われる。
「荒木を張出大関に持つていつたのは妙ぢや。二段目前頭の二枚目に長崎の共益館を据えたのは英断ぢや。西方に顔が見えないので寂しいのは、京都の山田茂ぢや、この先生古本の目利きでは素晴らしいものぢやが、今では微禄しとるからのう。」と書いている。あと気になるのは、

(略)驚いたのは行司だぞ。なぜ読売新聞の図書室が自ら進んで行司にならんのぢや。おれみたいな温良な図書館の先生に、この難役大役をおッつけるとはヅルイぞ。

とも書いていて、「覆面子」は図書館関係者のようにも読める。今なら「あなた、書物蔵さんでしょう」と言いたくなるような博識、文体のこの人物は果たして誰なのか。
なお、この見立番付については、『ブック・レビュー』2巻8・9合併号(図書研究会、昭和3年8月)の「全国古本屋番附・雑観」で紹介されている。それによると、この番付は明治42年*1名古屋の其中堂が自店の営業宣伝用に作成したもの以来ではないかとしている。

*1:『古本屋』5号(荒木伊兵衛書店、昭和3年5月)で復刻されているが、明治41年1月1日付けである。

松原成信と水谷星之介(和夫)の同人雑誌『憧憬』

グーグルブックスによると、松原成信と水谷星之介が『滋賀県史 昭和篇』6巻(滋賀県、昭和60年3月)に出てくるらしい。早速見てみると、

蒲生郡金田村(現近江八幡市)の松原成信は、水谷星之介と共に、総合文芸誌、『憧憬』を発刊、一〇号まで続いたが、戦時下のため、休刊、松原は応召、戦病死。
(略)
終戦直後、水谷星之介(大正一一年生)がいち早く、『憧憬』改題の文芸同人誌『三太郎』を発刊。水谷自身は創作や詩を書き、二二年までに三号。二三年より二六年まで、『氷河』と改題。五号まで発行。一方水谷は、当時県庁職員であった岡田行生と、「文芸首都滋賀支部」を二五年に結成。『滋賀文学』を創刊。水谷は大津生。本名和夫。膳所中学校を経て、小樽高商卒。海軍予備学生となり復員。滋賀県立図書館次長をつとめた。

いや、『憧憬』が県史に載るような同人雑誌だったとは驚いた。10号まで続いたというのは何で確認したのかな。どこの図書館も所蔵していないようだが。『憧憬精神』(磯田克爾、昭和18年12月)の松原の「跋」によると、同誌の副題として「緑の枯草」、「甲蟲」、「一本道」、「ハイデルベルヒ」、「超人」、「知られざる神」、「道程」、「紫の火花」、「末期の眼」を挙げていて、確かに10冊ほど発行されたようだ。また、「『炉火』の時から僕等の精神を互に支へた水谷、島林、池長、又『憧憬』を共にした磯田、清水、増永」とある。『憧憬』の前に『炉火』という同人雑誌があったようだ。また、松原と水谷は膳所中学校で同級生だったと思われ、その後水谷は同志社大学には進学してないので、『憧憬』が同志社大学生による同人雑誌という私の推測は間違いだったようだ。
なお、水谷が戦後創刊した『滋賀文学』は第2号から『駱駝』と改題。同人には外村繁の紹介で『新小説』に発表した「異邦人」で芥川賞を受賞する辻亮一がいるという。

東京予防拘禁所旧蔵、岡崎文規『印度の民俗と生活』

知恩寺秋の古本まつりだ。林哲夫氏ほどは凄い本が拾えてないが、100円均一コーナーでそこそこ拾い物はあった。本書は、その100円均一コーナーではなく、津田書店で400円。千倉書房から昭和17年8月発行。普通ならタダでもいらない本だが、扉に「東京豫防拘禁所」と「収容者用」の印が押されていたので、購入。豊多摩刑務所(後に府中刑務所)内にあった東京予防拘禁所の収容者用の図書だ。
土屋祝郎『予防拘禁所』(晩聲社、昭和63年8月)によると、東京予防拘禁所には、著者の土屋の他、徳田球一、志賀義雄、福田和夫、黒木重徳、河田賢治、川内唯彦、松本一三らが収容されていた。彼らは、もしかしたら本書を読んだかもしれない。
東京予防拘禁所から津田書店に渡るまでの本書の来歴だが、もう一つ印が押されていた。「人民文庫」印である。印が押された紙が見返しに貼ってあるのだが、そこには「30.ーー」「a」「100」という記号も書かれている*1。「人民文庫」というのは不詳だが、敗戦後民間人、それも左翼の人が作った図書館だろうか。そうだとすると、治安維持法違反の思想犯を予防拘禁した収容所の図書室から左翼系の図書館に渡ったという、敗戦による政治・社会体制の大変動を体現する貴重な一冊である。
追記:『予防拘禁所』144頁には、

教導たちの控室には若干の図書が備えられていて、自由に閲覧することができた。軍事ファッショの時代となり、二・二六事件や結盟団事件に思想的根拠を与えたといわれる安岡正篤や筧克彦等の著書がズラリと並んでいた。

とある。

*1:函の背には「民二七」と書かれた紙が貼ってある。

寸葉会で『温知図書館図書目録』(温知図書館)を

250円で見つけた図書目録。と言っても冊子ではなく、縦23cm、横61cmの一枚物。温知図書館は名古屋市東区蒲焼町四丁目の東洋倶楽部内に所在。発行年の記載はないが、「温知図書館新刊図書紹介(大正四年七月)」として36冊挙げているので、同年中の発行か。新刊以外の図書は、政治・経済が17冊、法律が2冊、宗教・倫理が14冊、実業・教育が15冊、哲学・文学が9冊、戦記・小説が58冊、家庭・園芸が23冊、美術が6冊、歴史・伝記・紀行が45冊、随筆が51冊、雑部が28冊の計268冊である。この他、寄贈書目が7冊、保管書目が5点ある。保管書目は『新井白石全集』、『続々群書類従』、『新群書類従』などで「保管図書は平素書籍の取扱丁寧なる方に限り貸出を為す」とある。なお、裏面の最後に「図書貸出 温知図書館」とあるので、保管書目以外の図書は誰にでも貸出をしたと思われる。
「東洋倶楽部」とは不詳で経済団体かとも思ったが、所蔵図書の傾向が実業関係以外の物が圧倒的に多いので違うのだろう。雑部には井上円了『おばけの正体』、白井光太郎『植物妖異考』、新刊図書には田中祐吉『幽霊新論』、江見水蔭『奇人怪人』も含まれていて、選書眼のセンスの良さ(?)を感じさせる。蔵書数が300冊ほどでは今では笑っちゃうような図書館だが、大正初期の地方の図書館では公立でもこんなものかもしれない。
この温知図書館については、『近代日本図書館の歩み 地方篇』にも記載がなく、創立年など詳細は不明であった。大正4年創立だとすると大正天皇の即位記念事業として創立された数多くの図書館の一つということになるかもしれない。