神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

川端康雄先生の講演「ウィリアム・モリスと小野二郎」にオタオタ日記

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今日は大阪古書会館の「たにまち月いち即売会」に遅刻。何冊か掘り出し物があったが、それよりも某先生から嬉しい連絡をいただく。5月に世田谷美術館で開催された川端康雄日本女子大学教授の講演「ウィリアム・モリス小野二郎」で拙ブログの「小野二郎と妻悦子の出会い」に言及されていたという。いや、驚きました。今月23日までの展覧会「ある編集者のユートピア 小野二郎ウィリアム・モリス晶文社、高山建築学校」は行けそうもないので、図録を取り寄せたばかりでした。講演を聞きに行って、突然自分のブログが話題になったら心臓が止まるほどビックリしただろうなあ。

『精神界』をリアルタイムに入手していた藤岡作太郎

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藤岡作太郎は国文学者として知られているが、その経歴から言って宗教関係者の知己も多かった。村角紀子編『藤岡作太郎「李花亭日記」美術篇』(中央公論美術出版平成31年3月)の「年譜」及び村角氏の「解説」から一部を抜き出すと、

明治3年7月 加賀国金沢早道町生まれ
明治17年9月 石川県専門学校附属初等中学科に入学、同級生に井上友一・鈴木貞太郎(大拙)・松山米太郎など
明治20年 7月第四高等中学校予科第三年級に入学。教員に今川覚神。同級生に西田幾多郎、松本文三郎、金田(山本)良吉など
明治22年 西田・松本・金田・川越宗孝らと「我尊会」発会、自筆回覧誌『我尊会文集』を作成
明治24年 9月帝国大学文科大学国文学科に入学。哲学科1年に小谷重。後に2学年下の国文学科に佐々政一(醒雪)、哲学科に高山林次郎(樗牛)、姉崎正治(嘲風)などが入学。哲学科撰科に西田など
明治27年 7月卒業
明治28年10月 旧師今川覚神の誘引により真宗大谷派第一中学寮教授、同大学寮嘱託を兼任し京都に転任。生徒に暁烏敏。11月大学寮で『無尽灯』創刊、編集に携わる。
明治30年9月 第三高等学校教授
明治33年9月 東京帝国大学文科大学国文学科助教授となり、単身東京に移転、曙町あたりに下宿
明治34年2月 京都の家族をよびよせ本郷区山新町に移転

こうしたネットワークがある中、明治34年1月15日清沢満之、佐々木月樵、多田鼎、暁烏らにより雑誌『精神界』が創刊された。藤岡の日記には初期の同誌が出てくる。

(明治卅四年二月)
十五日 (略)
雑誌精神界二号[同年一月に清沢満之暁烏敏ら精神界発行所より創刊]送り来る
(同年三月)
十六日 (略)
精神界三号 無尽灯六巻三号 送り来る

[ ]内は翻刻者による補注

藤岡は創刊号が出た1月には京都にいた上、同月16日から25日分の日記がないのが残念だが、2号及び3号を入手していたことが確認できる。『精神界』は、暁烏編著『清沢満之の文と人』(大東出版社、昭和14年5月)の「清沢満之先生小伝」によれば

三十九歳明治三十四年の一月十[ママ]日に『精神界』第一号が発行せられた。二千部印刷した。二月になつて一手販売の東京堂へ行つて調べてみたら、四百部売れてゐた。当時の雑誌としては、先づ先づ成功であつた。(略)

当初2千部発行された『精神界』は暁烏が言うように売れたようで、3号の「社告」に1号、2号共に売切とある。この発行部数2千は「明治41年における雑誌の発行部数」で見たように明治40年代に入っても維持されたようだ。

稲岡勝『明治出版史上の金港堂』(皓星社)にならい出版史料を発見

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近代文学研究者や出版史研究者、更には明治文化研究者や社史編纂者などにとっても必読書の感がある稲岡先生の著が刊行された。『明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み』(皓星社)である。今後研究者は、稲岡先生が惜しげも無く披露してくれたトゥールや問題意識を最低限踏まえることが必要になったと言えるだろう。
さて、本書には「金港堂に関連のある図書」として、二葉亭四迷樋口一葉尾崎紅葉幸田露伴、山田美妙などの日記が挙がっている。出版史料としての日記は私も注目していて、「出版史料としての『柏木義円日記』」や「戦時下における内閲の一事例ーー秋田雨雀『山上の少年』の内閲をする上月検閲官ーー - 神保町系オタオタ日記」などで紹介したことがある。今日は、まさしく金港堂の出版史料としての村角紀子編『藤岡作太郎「李花日記」美術篇』(中央公論美術出版平成31年3月)を取り上げてみよう。

(明治卅四年三月)
廿七日 (略)朝金港堂の岩田某[僊太郎]来訪す(略)
(同年九月)
廿九日 (略)尋で教育界[月刊雑誌、金港堂より明治三十四年十一月創刊]の曽根松太郎来訪 原稿の催促す(略)
(明治卅五年一月)
十八日 (略)午后佐々氏(政一、号醒雪、当時金港堂編輯者で雑誌『文芸界』主幹)来訪(略)
卅日(略)午前佐々君来訪 絵画史のことにつき談あり(略)
(同年二月)
十日 (略)午后より南画論をかき始む[評論「南画論」『文芸界』創刊号、三月十五日発行に掲載](略)
(同年六月)
廿日 (略)金港堂に至り佐々兄をとふ 不在、小谷兄に面会しまた主人原[亮一郎、金港堂社主]にあふ 小谷兄に絵画史挿画のことを托して帰る(略)
(同年十二月)
廿三日 (略)絵画史指(ママ)画廿三枚校正して金港堂に送る 中三枚書直し(芳崖像切取りて添やる)(略)
(明治卅六年三月)
七日 (略)印を写して絵画史の表紙とせんとしてこれにかゝりて一日を費す(略)
廿日 (略)テガミ 金港堂より契約書封入
(略)
(同年四月)
四日 (略)
テガミ(略)絵画史校正始て来る
(略)
(同年五月)
十日 (略)
テガミ 金港堂へ 出版届捺印して送る
(略)
十七日 (略)金港堂に至り緒言、目次、索引、挿画等渡し了りこれにて近世絵画史の悉皆を了す 尚佐々氏としばらく談話し四時過帰宅す(略)
(同年六月)
廿四日 (略)午前金港堂より絵画史検印千枚トリに来る(略)
廿八日 (略)佐々兄また来る 絵画史一冊おいて行く[『近世絵画史』奥付には明治三十六年六月二十日発行とあり]
(同年九月)
三日 (略)
金港堂より絵画史初版に対する一三〇円送り来りあり
(略)

[ ]は翻刻者による補注。藤岡著の『近世絵画史』(明治36年6月)を巡るやりとりはもっと記載があるが、省略した。同月24日の条により初版1000部と分かるのが特に貴重だろう。なお、『近世絵画史』の発行の経緯については、村角氏の「解説 藤岡作太郎の絵画史ネットワークーー郷里・帝都・旧都ーー」 で取り上げられており、稲岡先生の「金港堂の七大雑誌と帝国印刷」『出版研究』23号、平成5年3月も参照されている。また、藤岡の日記の原本は石川近代文学館が所蔵しているが、金港堂からの書簡も存在するようだ。

明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み

明治出版史上の金港堂 社史のない出版社「史」の試み

藤岡作太郎「李花亭日記」(美術篇)

藤岡作太郎「李花亭日記」(美術篇)

『純正真道』に酒井勝軍と荒深道斉の往復書簡

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昨日の研究会では結局古本バトルに参加。「検閲」と言うべきところを「事前検閲」と言ったりして、やや冷や汗ものであった。持って行ったのは、既に紹介した『神代文化』(神代文化研究所)、人生創造支部連盟機関雑誌『交響』のほか荒深道斉の『純正真道』4巻5号(純正真道研究会出版部、昭和8年5月)の部分的コピー。コピーは昔吉永師匠か、剣岩の場所を訊きに行った道ひらき西宮支部(?)でもらったのだろう。コピーの写りは悪く、写っていない行もある。『純正真道』の原本は一冊も持っていないが、面白そうである。金沢文圃閣が「日本の古本屋」に創刊号からの不揃い43冊*1をいい値段で出しているが、手が届かない(´・_・`)
さて、コピーは「酒井勝軍氏と書信の交歓」と題して、酒井と荒深の往復書簡が掲載されている。前置きとして、3[ママ]年前に酒井の『モーセの裏十誡』(国教宣明団、昭和6年12月)を読んでから酒井がユダヤ人研究に熱心なことに感心していた。3月24日突然書簡が来て、酒井が竹内文献に熱心な信仰を持つことを知ったという。荒深自身は、昨冬三浦関造から磯原神宮の概況を知り、次いで三條彦之から竹内文献の訳本の寄贈を受け内容を知ったらしい。三條彦之という人物は初耳である。
さて、酒井からの書簡は、
・前田から荒深著の『八咫鏡』(純正真道研究会本部、昭和7年12月)を入手したこと
・数年前*2竹内文献を見てから、数十年来のトーラ及びバイブル中の日本に関する研究を棄て、竹内文献に立脚して小著3冊を発行
・荒深は竹内文献を見てなく、記紀以外に正史がないと信じていて、そのため研究に事実と合致しない所があるので、是非竹内文献を通覧されたい。
・荒深著には神鏡・神剣を実在の物体ではないとあるが、ヒヒイロカネ製で実在する。ヒヒイロカネの大金塊は先月入手した。
荒深からの返信(3月27日付け)は、
・自分は、若い頃日比谷大神宮に奉仕し、神宮教(現神宮奉斎会の前身)の教校で本居、飯田、小中村博士等より皇典研究の講授を3年受けた。その後、紡績事業に携わったが、大正11年大病にかかり、回復後は実業方面に職を執ることができなくなった。
記紀の復習を始めたが、記紀共に宇宙生命の進化説なりとの新解釈を自覚して、昭和3年には純正真道研究会の会長に推された。
記紀を見ると、何物か自分の背後から意思を指導するようで、3千年前の世相を語る時は道臣忍耐日長尾命(略)1万5千年前の事は在真日武花幸彦命等その当時の在世人霊なりとて、親しく見聞した事項を口にせしめ筆にせしめ示され、2千余枚の筆記を累ねた。
記紀天孫降臨後179万年の史実を欠如している点が残念で、将来内地某所の秘岩庫から世に出るべく、それまでは在真日子命等の宣示する天津古世見により、天降後5百代の天皇の御名及び史蹟の霊示があり、それを正史とするのが、当会の主意である。
竹内文献は決して正史に非ずと断言する。
原文では「神代日本正史」や「竹内家古文書」などとあるが、「竹内文献」に統一した。酒井が天津教の秘宝にすっかり魅入られたのに対し、荒深は霊示により得られた自身の文献を誇示していたことがわかる。ただ、『思想月報』89号(司法省刑事局、昭和16年11月)の「元天津教信者の言動並同教支持団体の動向」に天津教支持団体として荒深の天孫文化研究会があがっているので竹内文献から完全に遠ざかったわけではないようだ。いわゆる偽史運動が盛んだった戦前には、他にも酒井の『神秘之日本』、中里義美の『神日本』、田多井四郎治らの『神代文化』といった雑誌・新聞があった。探せばまだまだあるだろう。
コピーには続いて小圷三郎「六甲山神籠探査登山日記」が掲載されている。荒深と共に鏡座や剣座を調査した記録である。荒深が昭和7年9月に発見した芦屋の剣座(剣岩)には、吉永師匠や理学部のU君と探索に行ったが懐かしい思い出である。
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*1:タイトルは『真人界』(昭和5年7月創刊)→『純正真道』→『素下霊』と変遷したようだ。

*2:昭和4年。「中山忠直と竹内文献」参照

石丸梧平の人生創造支部連盟機関雑誌『交響』創刊号

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今月15日人文研で第19回「仏教と近代」研究会&宗教雑誌ワークショップ第2回「雑誌メディアの近代仏教」開催。今度は出番がないので、気楽に聞けそう。詳しくは、「「仏教と近代」研究会 : 第19回「仏教と近代」研究会&宗教雑誌ワークショップ第2回「雑誌メディアの近代仏教」

吉永進一 趣旨説明
武井謙悟 「仏教雑誌研究の変遷ーー保存・利用・活用ーー」
大澤絢子 「人生論としての親鸞と禅ーー石丸梧平の『人生創造』」
司会 石原和
コメント 赤江達也
第2回宗教雑誌古本バトル

石丸の『人生創造』はわりとよく見る雑誌で、私もどこかに埋もれているが1冊持っていたと思う。石丸は『日本近代文学大事典』から要約すると、

石丸梧平 いしまるごへい
明治19・4・5~昭和44・4・8
小説家、評論家。大阪府生。早大卒業後地方の中学で教鞭をとったが、小説家を志望して第1次大戦後上京。処女作『船場のぼんち』(大8・5)を自費出版し、中央公論編集長滝田樗蔭に認められ文壇にデビュー。続いて『朝日新聞』に『山を降りた親鸞』『吉水の崩壊』を連載、『人間親鸞』(大11・1 蔵経書院)として世に出ると、当時のベストセラーに。大正13年6月個人雑誌『人生創造』を創刊。以後の文筆活動は主としてこれにより、彼一流の宗教的ヒューマニズムに立つ人生論文学論を展開した。

これに加えると、『早稲田大学校友会会員名簿 大正四年十一月調』(早稲田大学校友会、大正4年12月)によれば、「石丸五平」は明治41年高等師範部歴史地理科卒、肩書きは中外日報社文芸主任。
『人生創造』も削除処分を受けていて、『雑誌新聞発行部数事典』(金沢文圃閣)で一時期の発行部数がわかる。

14年163号 昭和12年10月 7500部
3月号    昭和13年3月 7000部
12号 昭和14年12月 8600部
194号  昭和15年2月 4500部
18年5月号 昭和16年5月 1000 部

昭和15年から発行部数が激減したことがうかがえる。削除処分の理由は最初の2回が風俗壊乱、後の3回が安寧秩序紊乱である。前者は大槻憲二の記事の性描写が露骨で引っかかった。
写真をあげたが、以前「日本の古本屋」経由で佐賀の西海洞書店から『人生創造』の支部連盟機関誌『交響』創刊号、16頁を入手。改元に対応できず、大正16年1月発行になっている。目次はご覧のとおりで、あまり面白い内容ではない。その中で「支部消息」に小堀本仁(立正大学内第260支部)が支部員の意見を報告していたのが参考になる。

阿部清徳ーー僕は石丸先生の宗教観が親鸞に偏してゐる所に思想家としての先生の欠点とそして不満とを持つてゐますね。又仏教観などがまだまだ徹底してゐないことはたしかだ。文芸論は徹底してゐますが他はどうしてもものたりなさを感ぜずにはおられない[。]これは止むを得ないであらうが然しあらゆる方面に亘つて全く新しい真に人生主義的態度を取るのがこよない先生の人格を慕ふ点です。
(略)

1行目はおかしな文章になっているが、『人生創造』本誌には石丸に批判的な記事は載らないだろうから、支部連盟の機関誌レベルには率直な意見が掲載されていて貴重と思われる。
(参考)「石丸梧平の『団欒』に「関西文士録」

戦後も活躍していた及川道子の父及川鼎寿

グーグルブックスの威力は凄いもので、オタどんが自力では到達できなかったであろう文献を示してくれた。クレス出版から復刻版が出ている文部省編『宗教要覧』(光風出版、昭和27年7月)である。ここに昭和26年4月2日現在の教宗系教団の現勢が出ていて、その中の「一粒会」に及川の名が見える。

一粒会
1 東京都千代田区西神田2丁目2番地 東方学会ビル
2 小平権一 及川鼎寿
3 主管者小平氏は元農林次官、及川氏は実業家で元株式株式会社クリスチャン=フード(25年解散)の社長であり、日本基督教団霊南坂教会の信者であつたが、既成教会に不満を感じ、特に農村自給教会を建立することを主目的として、25年12月新教団を設立した由。これは平信徒のみの教団で。[ママ]三鷹市下連雀町および武蔵野市吉祥寺(略)及川方に教会がある。なおこのほかに、宗教法人と同番地に財団法人一粒会(理事長小平権一)を設けて事業を行う。
宗教法人の事業計画は、(1)50村に1つの農村教会を建設し、各3町歩の農場を附属す。(2)霊安殿建設。(3)児童館建設、とあるが、現状については不明。

そのほか、鼎寿が明治学院の学生とする文献もあるようだ。明治学院ルートを調べれば、生没年がわかるかもしれない。
(参考)「女優及川道子の父にしてキリスト教社会主義者の及川鼎寿とシーラ倶楽部 - 神保町系オタオタ日記

福田屋書店から門野普光旧蔵の『清澤満之』(観照社)

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今年も下鴨の納涼古本まつりが近づいてきた。昨年は福田屋書店の200円均一コーナーが水田紀久先生の旧蔵書を放出して圧巻であった。写真の『清澤満之』(観照社、昭和3年9月)は水田先生とは多分無関係で、「門野普光」の旧蔵書のようだ。
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見返しには書き込みがあって、全部は読めないが、昭和3年10月に稲葉昌丸から送られたようだ。
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書き込みした人物「□□光」が門野かは不明。稲葉は本書に今川覚神と連名で「清澤君の事ども」を執筆している。清澤と稲葉は明治14年東京留学を命じられたり、29年寺務革新運動を企図したり、親しかった。門野については、さっぱり不明で、グーグルブックスで検索するとアメリカで布教をしていたようだ。本ノ猪君、暇な時に調べてみて。