神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

古書からたちで買った相馬黒光『滴水録』に「滴水日記」掲載

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相馬黒光「滴水日記」昭和18年2月22日の条が載った『女性時代』について「昭和18年河井酔茗主催の文庫会に集まった誌友達 - 神保町系オタオタ日記」で言及した。その後、休店前の古書からたちでおまけしてもらった『滴水録』(相馬安雄、昭和31年2月)に昭和16年から18年までの「滴水日記」が収録されているのを発見*1。「田中清一」に関する記述があった。

(昭和十七年)
二月二十三日 日曜日
(略)
つづいて富士工業会社の田中清一という人から、頭山先生を通してまた一万円の寄附。その他小[ママ]額でも熱い志のこもつた寄附が続々あり、大衆の中にこの支持があつて印度の独立が行われる。私は感謝に堪えなかつた。
二月二十四日
(略)
ユダヤ研究」という雑誌に、ユダヤ人の予言というものがでている。これは外務省関係の雑誌「外交」に「ヘルマンの未来記」というのが出て、それから抄出したものだという。(略)

「富士製作所」ではなく、「富士工業会社」になっているが、やはり神代文化研究所を支援した田中だったようだ。仲介した頭山も竹内義宮『デハ話ソウ』(皇祖皇太神宮、昭和46年11月)の「主なる神宮拝観者と参拝者」で昭和10年中の拝観者に名前があり、田中同様竹内文献とは近い関係にあった。田中は戦後参議院議員になっていてWikipediaにも立項されているが、『昭和人名辞典』2巻から要約すると、

田中清一
富士製作所(株)社長 工作機械製作業
庵原郡袖師村
(工場)沼津市日ノ出町 (東京事務所)麹町区丸ノ内丸ビル内
[閲歴]明治25年9月3日福井県の田中教専の長男に生まれる。大正5年大阪工業専修校卒。昭和6年富士製作所を創立。先に大阪製材機工作所所長たり。

黒光が読んでいた『ユダヤ研究』は国際政経学会の『猶太研究』だろう。頭山と親しかった中村屋相馬愛蔵・黒光夫妻も竹内文献には近い関係があったのかもしれない。
(参考)「相馬黒光と酒井勝軍のデート」、
戦時下のユダヤ研究会と丸山敏雄の日記」、「国際政経学会常務理事増田正雄の敗戦前後

*1:「滴水日記」は『滴水録』収録に際して相当削除されていて、昭和18年2月22日の条の田中に関する部分もカットされている。島本久恵「あとがきとして」に「あまり大部となるために、沢山の日記其他を割愛した」とある。

女優及川道子の父にしてキリスト教社会主義者の及川鼎寿とシーラ倶楽部

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黒岩比佐子さんが亡くなる前、「あと10年生かしてくれれば」と泣いておられたと思う。黒岩さんには執筆予定の作品が幾つかあった。ヘレン・ケラー、婦人記者下山京子である。他にも、「忘れられた美人女優及川道子と堺利彦夫妻」のコメント欄にあるように女優及川道子の父及川鼎寿にも関心があったようだ。御健在であれば、『パンとペン 社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社)の文庫版に増補するか、別に一文を書いておられたかもしれない。
私は平成22年10月『秋田雨雀日記』の昭和6年11月8日の条に及川道子の記述を見つけて、早速ブログにアップしてしまった。しかし、それよりも黒岩さんを驚かす記述が他にあった。

(昭和十二年)
二月二十三日
(略)今夜、数寄屋橋の五合庵(及川道子の妹の店)で金田、大沢の諸君五、六人がぼくを慰むる会を開いてくれた。道子のお父さんもきた。この人は明治三十七、八年ごろのキリスト教的ソーシャリストで、エスペラントを最初にやった人だ。シーラ倶楽部“SHILA”(社会主義人道主義自由主義、アナルヒスト)なぞをやった人で、このころ、早稲田の白柳の「火鞭」なぞの運動と交渉を生じてきたのだ。野生社*1ーー春秋社のトルストイ全集なぞとの関係も興味がある。(略)
(昭和十三年)
十月一日
(略)夕方及川家へいく。父の鼎寿君がとても喜んでくれた。お母さんから道子さんの臨終の話をきいた。「私は正しい人間の生活をして来たから云々・・・」「私一人のためでなく、皆のために祈ってくれ云々・・・」涙が出た。和田君のデス・マスクは立派。
(及川道子の家を訪う。臨終の話をきいて泣かされた。)

鼎寿については、『近代日本社会運動史人物大事典』1巻(日外アソシエーツ)に立項されてはいるが、詳細は不明とされている。要約すると、

及川鼎寿 おいかわ・ていじゅ
生没年不明 
学生時代、片山潜らとキリスト教社会主義の文学雑誌『野の声』を出した。明治38年結成の社会主義的青年文学者の団体火鞭会のメンバー。労働文学で活躍した作家宮地嘉六に影響を与えた人物として知られるが詳細不明。女優及川道子の父。

また、同事典の神田豊穂(春秋社社長)の項には、明治33年頃、鼎寿、岡千代彦、片山潜らと『野の声』を創刊とある。これに加えれば、道子の自伝『いばらの道』(紀元書房、昭和10年3月)によれば、父鼎寿は、青年時代には、
霊南坂教会の青年部で活躍したり、
・呉の海軍工廠で働く職工達のために消費組合の建設に奔走したり、
・地方の農村青年のために『学芸と青年』という雑誌を独力で発行
したという。
一番気になるのは、秋田の日記にある「シーラ倶楽部」である。波勢さん、専門外のようだが何か御存知ないかしら。

*1:正しくは、野声社か。

内務省検閲官が残してくれた田多井四郎治・小寺小次郎の『神代文化』(神代文化研究所)

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学生時代から酒井勝軍、荒深道斉、鵜沢総明、田多井四郎治といった竹内文献に関わった人達の名前にキャアキャア言っていた。田多井が理事を務め、大湯の環状列石の発掘にも関わった神代文化研究所も当然知っていたが、機関紙『神代文化』は未見であった。ところが、平成27年11月西部古書会館の古本市でとうとう発見。内務省の受付印がある。この時期、内務省の元検閲官だった人の旧蔵書が東京の市会に出たようで、金文堂、魚山堂、古書かんたんむなどが内務省印のある雑誌等を古書市や店に出品していた。検閲官某は宗教、郷土史アイヌ等に関心を持っていたようで、その関係の雑誌や新聞を役得(?)で持って帰っていたようだ。おかげで、どこの図書館にもない機関紙を私が入手できた。そういえば、戦後も四畳半襖の下張事件で押収された『面白半分』が判決確定後に押収部数より相当減った部数しか返還されなかったというから、役得の慣例は引き継がれているのかもしれない。
私が入手したのは、秋桜書店出品で『神代文化』2部で300円。多分この10倍以上でも買っただろう。33号(昭和16年7月)と35号(同年10月)である。編輯兼発行人は理事の小寺小次郎。目次は写真のとおり。35号の座談会「日、独両国人の”神代文化を語る“座談会」が面白い。昭和16年9月16日丸之内常盤家で開催され、出席者は、

・日本側 林銑十郎大将、小磯国昭大将、一條公爵、研究所井上所長、小寺理事、田多井理事など
・独大使代理シュルツェ文化部長、ジュルクハイム教授、ワルデック博士など

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小磯がウィリアム・ペリームー大陸に言及している部分を写真で挙げておく。ペリーについては「「銀シャツ党」首領ペリーと古賀政男の弟古賀治朗」を、ジュルクハイム(デュルクハイム)については「情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その21)」参照。デュルクハイムはスメラ学塾のメンバーであった。
田多井と神代文化研究所については、大内義郎『神代秘史資料集成解題』(八幡書店、昭和59年8月)に

(略)昭和十三年頃、当時唯一の特殊軍需要[ママ]器材制[ママ]作所として知られていた静岡県沼津市の富士制[ママ]作所社長田中清一を資金のバックとして小寺小次郎が興した神代文化研究所で理事・所長の要職を占め、同じ頃所員となった安藤と並んで上津文研究家として活躍し、同十七年には大湯のストーンサークルの発掘を手懸けたが、昭和十八年頃、研究所の役員から身を引いている。(略)田多井が神代文化研究所の所長であった時期は、判然としないが、比較的初期の頃のようである。昭和十七年当時の田多井の肩書は研究所理事である(略)

とある。田多井が所長を務めた時期は私も知らないが、小寺の『言霊研究入門』(神代文化研究所、昭和15年10月)の巻末では所長は元東北帝大総長井上仁吉である。『神代文化』の揃いが発見され、八幡書店から復刻版が出れば、この辺りの謎が解けるのだが。
『神代文化』の発行部数だが、幸い(?)なことに削除処分を受けたため小林昌樹編・解説『雑誌新聞発行部数事典』に掲載されている。

21号 昭和15年6月 1744部
27号 昭和16年1月 2000部
30号 昭和16年4月 2000部
34号 昭和16年9月 2000部

入手したのが33号と35号だから、さすがに発禁となった号は持って帰らなかったのだろう。毎月20日発行なので、逆算すると昭和13年10月頃創刊ということになる。
この『神代文化』や中里義美主宰の『神日本』は、戦後の『さすら』や『日本神学』(『神霊文化』)といった「もう一つの日本」を顕彰する雑誌群へ連なる系譜と言えよう。
追記:今年の3月に創刊号、2号、6号、35号、36号、38号の6冊がヤフオクに出たようだ。画像では昭和13年9月創刊。

初期の『宝石』に結集した詩人達と武田武彦

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私は「内田百閒より内田魯庵を大事に思いたい」方だが、百閒の戦前・戦中の日記が慶應義塾大学出版会から出たので、百閒の日記からネタを。中公文庫になった『百鬼園戦後日記』(小澤書店)だが、余りブログのネタに使える記載はなく、原稿の依頼に来る編集者の名前がフルネームで書かれているのが、多少役に立つくらいか。ほとんどの依頼を断っていて、次の『宝石』の場合も同様である。

(昭和二十二年)
七月十四日 月 二十六夜
(略)午下岩谷書店寶石編輯武田武彦来、原稿の依頼也、ことわる。(略)

『宝石』は、『「宝石」傑作選』(光文社文庫、平成16年1月)の山前謙「推理小説界の牙城だった「宝石」」によれば、

その創刊にかかわったのは、岩谷満(ルビ:いわやみつる)、城昌幸、武田武彦の三人である。明治時代に煙草でひと財産を築き上げた一族のひとりである岩谷は、岩谷健司の名で詩も書いていたが、戦後、城や武田と出会い、雑誌創刊を思い立った。(略)

さて、先日中之島の中央公会堂で開催された水の都の古本展で『宝石』の創刊号ほかが杉本梁江堂の出品で出ていたので何冊か購入。
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表紙に「探偵小説雑誌」とあるが、当初は詩の掲載にも力を入れたようだ。写真にもあるように、創刊号(岩谷書店、昭和21年4月)には、北園克衛「宝石詩抄」、岩谷健司「指の連想」、武田「手袋と葉巻」が掲載された。その他、山前編「「宝石」作者別作品リスト」からざっと抜き出すと、

大坪沙男 願望 昭和28年4月
長田恒雄 庭園事件 昭和21年7月
門田ゆたか 今年のサンタクロース 昭和24年12月
上林猷夫 新しい事件 昭和30年8月
北村太郎 ちいさな瞳 昭和31年1月
木原孝一 舞踏会 昭和21年11月 など
小林善雄 麦畑のアリバイ 昭和21年6月
近藤東 くちなしの花 昭和21年5月
嵯峨信之 氷上幻想 昭和25年2月 など
笹沢美明 美の秘密 昭和21年5月
関口修 油絵 昭和25年6月
竹内てるよ ばらと小刀 昭和21年12月
田村隆一 告発 昭和24年11月
長江道太郎 夢のなかのミステリー 昭和30年5月
中桐雅夫 あはれな探偵 昭和24年9月増刊号 など
中村千尾 神話 昭和30年12月
平林敏彦 ある朝の記憶 昭和30年4月
福田律郎 美しい骸 昭和21年12月
水田喜一朗 青と六人目の妻 昭和31年3月
村野四郎 庭園の悲劇 昭和21年10月
MORI 森の惨劇 昭和24年7月増刊号
山本太郎 寓話4 昭和31年4月

特に昭和20年代に詩も掲載していた傾向がうかがえる。創刊号に自ら詩を寄稿した武田は、その後も「アルセーヌ・ルパン」(昭和21年5月)など詩は合計14回掲載されている。経歴はネットで読める「Weblio辞書」によると、大正8年生、早大政経学部卒、昭和23年から『宝石』編集長、平成10年没。これに加えれば、ホームズ物などの翻訳書や岩谷書店の現代詩叢書から詩集『信濃の花嫁』(昭和24年2月)を刊行している。武田が百閒に執筆依頼をした頃の『宝石』は、江戸川乱歩幻影城通信」(昭和21年8月-23年4月、6月-26年1月)、香山滋「海鰻荘奇談」(22年5月-7月)、木々高太郎「紫陽花の青」(22年6月-7月)、横溝正史「獄門島」(22年1月-23年9月)などが連載されていた。武田は百閒にどのような作品を期待していたのだろうか。

百鬼園 戰前・戰中日記 上

百鬼園 戰前・戰中日記 上

戦時下における内閲の一事例ーー秋田雨雀『山上の少年』の内閲をする上月検閲官ーー

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これまで散々『秋田雨雀日記』(未来社)を利用してきた。劇作家のイメージが強く、戦後は共産党に入党しているので敬遠する人も多そうである。しかし、秋田の日記は意外な人物が登場して有用なので、是非とも読んでいただきたい。拙ブログでは例えば次のようなものがある。

仮性トンデモ本だった『秋田雨雀日記』
稲岡奴之助の娘と散歩する秋田雨雀
知られざる大アジア主義ネットワーク
ポール・ケーラス『仏陀の福音』のもう一人の訳者
忘れられた美人女優及川道子と堺利彦夫妻

惜しむらくは、索引の無いことと、「刊行のことば」に「私事にわたることで重複したようなところを省略した程度」とあるもののまったく記載の無い日が結構あることである。青田寿美先生の「『鴎外全集』第三十五巻日記索引(人名篇)」『森鴎外研究』9号のような人名索引があれば、どれだけ重要な発見ができるか。たとえば、5月23日の京都新聞朝刊で紹介された拓本コレクションの旧蔵者で「東本願寺南方美術調査隊」撮影班の野村直太郎、詳しい経歴は不明とのことだが、同一人物と思われる名が秋田の日記に登場する。これについては、また別途紹介したいと思う。さて、仮に『秋田雨雀日記』に人名索引が存在したとしても、それでも気付かない発見が今回できた。戦時下における内閲の例である。

(昭和十七年)
二月十二日
(略)午前中「金の星社」の奥村定也君が「山上の少年」の校正刷と内閲願いをもって来てくれたので、午前一時ごろ家を出て情報局の傍らの内務省出版検閲課[正しくは検閲課ーー引用者注]へ行く。上月検閲官は議会へ行き、主任も留守なので一課員(多分鎌田氏)に一任して帰った。一週間位で模様が判るはずだ。(略)
(「山上の少年」内閲願い。)
二月二十日
(略)
午後十時すぎ、情報局傍出版検閲課を訪い、上月検閲官に逢い対談した。もと雑司谷に住った人で、友成君たちの友人だった。二十一日旧参謀本部あとに移転するので大変いそがしそうだった。近く通読してくれる約束をしてくれた。
(略)
二月二十六日
(略)今朝「山上の少年」に内検閲のことで情報局を訪うた。今度の情報局はもとの参謀本部のあったところで兵隊さんたちがトラックで荷物を搬んでいた。出版検閲局では上月検閲官に逢うと、とてもいそがしそうだった。室は古典的な立派なものだが、まだ片づかないでいた。「大いそぎで見て、直接出版書肆と連絡をとりますから」というのでよろしく頼んで帰った。
(情報局出版検閲課。)
三月十三日
(略)「金の星」社の「山上の少年」の内閲がおりたというので奥村君が持ってきてくれた。(1)キリスト教の神観について。(2)牢屋、囚人等の二、三の言葉について注意があったので、全部で三、四箇所訂正させられた。
(略)
(著書の内閲の問題。妙な検閲!(略))
三月十四日
(略)昨日「山上の少年」の内閲がおりたので安心した。検閲には妙な機械主義がある。官吏の芸術に対する理解の問題もある。この状態は相当長くつづくものと見なければならない。(略)
(「山上の少年」内閲がおりた。)

引用が長くなったが、内閲の経過が詳細にわかり、秋田の率直な感想も書かれていて貴重なものだろう。
牧義之『伏字の文化史 検閲・文学・出版』(森話社平成26年12月)によると、内閲は法外便宜措置として、大正中期に始まったが、大正14年頃には一般的運用はなされず、昭和2年6月に正式に廃止された。ただし、廃止以後も昭和7年の『日本資本主義講座』(岩波書店)や昭和18年1月1日の『朝日新聞』の例があるという。今回の発見で、もう一つ追加できた。そもそも秋田が内閲を特に依頼したのは、『太陽と花園』(フタバ書院、昭和16年10月)が同年11月に「人生社会に対する諸矛盾を扱い著者の思想運動に対する衝動が感受せらる」(発禁年表)として発禁になったため、次作では内閲を依頼したと思われる。日記には、

(昭和十六年)
十一月十五日
(略)
フタバ書院の唐沢君が来て、「太陽と花園」が子供の読み物として適当でない個所があるというので発売禁止になったことを報告してくれた。やはり人間による禁止と思われる点もあるが、やはり自分の現実に対する認識の弱いことを感じた。静思しろ!しかし、検閲制度の不合理!
(略)
十二月十六日
(略)ひるごろ警視庁の特高第一課の蘆田氏に逢い、その足で四階の検閲課で阿部検閲係に逢い、「太陽と花園」についての意見を求めた。それから内務省出版検閲課に主任を訪い、出版物の内閲を依頼した。内務省では割合に好意を持っていてくれた。個人に対することは問題にしていないということなので一安心した。(略)

とある。『山上の少年』は国会図書館のデジタルコレクションで見られるが、昭和17年4月10日に無事発行された。戦時下に粛々と(?)内閲した上月検閲官は上月景尊と思われる。

彙文堂異聞 京はわが先づ車よりおり立ちて古本あさり日をくらす街

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森鴎外大正6年12月帝室博物館総長兼図書頭となり、以後秋には正倉院曝涼のため奈良を訪問することになる。その節は京都の古本屋、具体的には今もある彙文堂を訪問していた。鴎外の日記によると、

(大正七年十一月)
二十八日。(略)往京都。訪彙文堂。(略)
(大正八年)
十一月一日。土。朝至京都下車。閲於彙文堂。(略)午後至奈良。入博物館官舎。(略)
(大正九年)
十一月一日。月。雨。抵京都下車。訪彙文堂。(略)午時入寧楽。寓于博物館官舎。

そして、鴎外は「奈良五十首」*1で一番目に、
京はわが先づ車よりおり立ちて古本あさり日をくらす街
と詠んでいる。余談だが、鴎外とは逆に京都の古本市に来た書物蔵さんらの一行が東京に帰る前に寄るのが書砦・梁山泊である。彙文堂の店主大島友直は大正11年6月に没*2、後を追うように鴎外も翌月に亡くなる。
さて、今は鴎外先生の代わりにわしが彙文堂で「古本あさり」をしている。といっても、鴎外のように大人買いはできないので外の100円均一台を漁るのである。ここの均一台も中々面白い物が出るので、うかうかしてると多分自転車で均一台巡りをしている林哲夫画伯に抜かれてしまうのである。先日は『神都日向』(神都高千穂宣揚会宣伝部、昭和12年3月)を発見。非売品、31頁。神都日向の神社、古墳、神話縁の地の写真集。目次の写真も挙げておく。
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今となっては、神話に関わるものの写真よりも最後のカリーと称する竹籠を背負った女性の写真の方が貴重かもしれない。
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(参考)鴎外と古書店については、「全財産を投げ打って『欽定四庫全書総目』を買った森鴎外」参照

*1:『明星』1巻3号(明星発行所、大正11年1月)

*2:野田宇太郞『文学散歩』18巻(文一総合出版、昭和52年7月)による。

戸川残花の長男戸川浜男の蔵書印

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弘文荘の反町茂雄は、数多い得意客の中でも中山正善、清野謙次、戸川浜男の3人と最も親しくしていた。中山は天理教の生き神様、清野は専門分野(医学・人類学)では世界的学者ということで多少の遠慮があったのに対し、実業家の戸川はまったく楽だったという。反町の『一古書肆の思い出』3巻(平凡社ライブラリー、平成10年9月)によれば、戸川の父親は戸川残花(本名・安宅)で、

浜男さんは、戦前は大阪の東洋棉花株式会社(今の総合商社トーメン)という、三井財閥系の有力な商社の専務取締役として盛名があり、戦時中は、軍の要請で中国へ出向し、北京の食糧公団の総裁を勤めて居られました。戦後は追放で、古巣の東洋棉花等にも近寄れず、不自由勝ちの御生活と察せられましたが、氏素性が良いだけでなく、名利を求めぬ恬淡な性格でしたから、どこか繊維関係の中小の会社の、名義だけの社長をつとめて、悠々自適の御生活でした。

という。この戸川浜男が、『秋田雨雀日記』(未来社)に出てきた。

(昭和十八年)
六月二十八日
(略)午前十一時半から移動演劇瑞穂劇団の島田友三郎君の結婚式に臨んだ。新婦は戸川民子といって、戸川残花の令孫だということを会場へきてはじめて知った。お父さんは残花翁の長男で技師で、書籍の蒐集家だそうだ。
戸川翁とは鬼子母神でたびたびお目にかかっている。幕臣で文部省の顧問格の人だった。三十才のころよく逢っているが、立派な白髪の人だった。
(午前十一半日比谷公園松本楼、島田友三郎結婚、戸川浜男長女民子。)

括弧は「凡例」によれば、「欄外の心覚え、メモ等」である。戸川が書籍の蒐集家であることは広く知られていたようだ。コレクターということで、「蔵書印データベース」を検索したら39件ヒット。ただし、浜雄が本名のようで蔵書印主は「戸川浜雄」とされ、「戸川氏蔵書記」「残花書屋」「賓南」「賓南過眼」の4つの蔵書印が見られる。